※本稿は、近藤康太郎『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。
積ん読はしたほうがいいのではないか
積ん読は読書ではない。とくに、本を横にして、床に積み上げていく文字通りの「積んでおく」は、場所ふさぎの害悪でしかない。
プロのライターであるならばいますぐやめるべき悪癖で、本は本棚に立てて、背表紙が見えるかたちで置かなければならない。タイトルを眺めているのが大切なのだ。ジャンルの違う本が、自分の頭の中で結びつく。電気が通る。そういうときに、企画は芽生える。いわば、脳の中で本という血液が循環する。だから、本棚の本はいつでも並びかえができるように、立てていなければならない。
そういう趣旨のことを前著『三行で撃つ』に書いた。このことを訂正する必要を認めていない。プロのライターに、積ん読は厳禁だ。
しかしこの本は、想定読者をもう少し広げていて、ライターばかりではなく、読書によって人生をカラフルにしようという人たちに向けて書いている。そういう人たちには、広義の積ん読はあってもいい。いや、したほうがいいのではないか。
広義の積ん読とはなにかというと、将来読むつもりで、本棚に入れておくこと。お飾り。いわば、ファッションとしての積ん読。そしてファッションは、読書にとってとても大切な要素だ。着飾り、背伸びを、楽しむ。
背伸びして買った「サマセット・モームの戯曲全集」
あの山田珠樹氏は言っている。「ドイツ語を習ひ初めた時にファウストを買つて来て置くのは笑ふべきことではない。その心は褒めてよい。」
——清水幾太郎『本はどう読むか』
大学二年のころ、英語の授業でサマセット・モームの戯曲“The Bread-Winner”を読んだ。とてもおもしろく、わたしにしては珍しく、授業の進度より早く読み終えた。輪読で、登場人物のせりふに「Life is so complicated.」とあるのを、「人生なんてそんなものよ」と訳したら、教授に「うまい!」といわれてうれしかったのを、よく覚えている。
この戯曲はモーム晩期四部作の一作で、富も名声も得た作家が、もはや観客へ媚びず、ほんとうに書きたいことを好きなように書いたものだという解説も知った。
四部作のほかの三作も読みたくなり、東京・神田の古書店街へ行き、英文学専門古書店で、分厚い三巻本のモーム戯曲全集を買った。わたしが初めて買った英語の本だった。書店員から「英文学系統の入荷本について、定期的にお知らせを出しましょう」と言われて、大いに困ったことを思い出す。
わたしのことを英文学専攻の大学院生かなにかと勘違いしたのかもしれない。ところがわたしは、英語が得意でもなんでもない。一冊を読み切った英語の本など、なかった。辞書を引き引きなんとか読み切った最初の英語本が、モームの“The Bread-Winner”だった。
見えで買ってはみたものの、英語は苦手なのだから、とてもじゃないが読み進む実力などない。当然のように、その戯曲集は、長いこと本棚の肥やしになった。