夫を裏切り武田と内通したワケ
家康から目をかけてもらえない築山殿がどんどん不満を募らせ、その嫉妬心が息子夫婦にまで向けられたという旨は、『松平記』にも記されている。
その挙げ句、武田方と内通し、信康を担いで謀反を起こそうとたくらんだ。それ自体は史実だと認識されている。そのことが、五徳が父親の信長に送った手紙から発覚し、天正7年(1579)9月、信康が切腹を命じられる信康事件に発展。それに先立って、築山殿も殺され、首を切られている。
家康にすれば、今川に逆心を起こしたのは、領国を守るために必要な判断だった。歴史もそれを証明している。一方、妻にとってはその選択が、あまりにも理不尽であったこともまた事実だろう。
この夫婦に仲睦まじい時期があったとすれば、駿府時代にかぎられるのではないだろうか。どの角度から検証しても、夫婦関係は冷めきっていたとしか考えられないのである。