森と池とヘビ
現・歌舞伎町一丁目にあった大村伯爵の土地を購入したのは、明治44(1911)年。大正初期にかけて大村邸の森を伐採し、池を埋め立てて宅地化(貸地)したが、非常に難工事だったと伝わる。「大村の森」が埋め立てられた後は、「尾張屋の原」と呼ばれるようになる。
現・歌舞伎町一丁目にある歌舞伎町弁財天は、大村邸の池に祀られていたものを、その埋め立て工事の際に移したとされる。
工事中にたくさんのヘビが出てきたのだが、工事の邪魔になるため埋め立ててしまったところ、工事請負人の夢枕にヘビがでてきた。喜代はヘビ年生まれだったため、このとき、上野不忍池の弁天様を分社として勧請したという。この埋め立て工事を経て、歌舞伎町は住宅地として発展していく。
喜代は社会貢献への意識も高く、晩年の大正7(1918)年になると自らの寿命を悟ったのか、50万円という、現在の価値に換算すると10億円という金額を東京府に寄付した。
「女子教育のための学校設立に使ってほしい」という条件であった。
喜代は大正7年12月に亡くなるが、その遺志を受けて大正9(1920)年に、東京府立第五高等女学校が開校する(戦災に遭い中野区に移転。現在は都立富士高等学校・附属中学校)。
現・東宝ビルから歌舞伎町弁財天のあたりにかけて、その敷地3400坪は、尾張屋が東京府に無償で貸与したのだ。
「歌舞伎町」に住んでいた総理大臣
関東大震災が発生すると、下町に比べて被害が少なかったため、家を失った人の多くが新宿など郊外へと移転してきた。歌舞伎町も、昭和に入ると住宅地としてますます発展を遂げていく。
なお、総理大臣の自宅というと安倍元首相が住んだ渋谷区富ヶ谷、かなり昔になるが田中角栄が住んでいた目白、吉田茂の大磯などというイメージである。まかり間違っても歌舞伎町という答えはでてこない。ところが、第2次世界大戦前の昭和の時代、歌舞伎町近辺に、3人の総理大臣が暮らしていた。
1人目は、第31代総理大臣を務めた岡田啓介である。岡田啓介の自宅が、角筈一丁目北町会長の鈴木喜兵衛の著書『歌舞伎町』の中に登場する。
鈴木が、終戦後の焼け跡になった歌舞伎町にたたずんでいる場面だ。「末世に取残された幽鬼の様に殺伐な廃墟の中でポツンと一戸 其の中から煙が一筋揺いで見える 岡田大将の土蔵の様だ」(原文ママ)。岡田の自宅は淀橋区角筈一丁目875(現・歌舞伎町一丁目)となっていて、新宿区役所の北側で風林会館の手前あたりだと思われる。