日本最大の歓楽街である新宿・歌舞伎町は、かつて森と池に囲まれた土地だった。そこからいかにして街がつくられていったのか。新宿歴史博物館の元館長・橋口敏男さんの著書『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)より紹介する――。(第1回)
ネオン輝く新宿・歌舞伎町
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歌舞伎町をつくった女性をご存じか

「大正評判女番附」という、当時の有名女性の番付(ランキング)がある。そのトップ、東の横綱に位置しているのが峯島喜代である。

西の横綱はNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルにもなった、広岡浅子。東の大関には、日本女医界の先達で、東京女子医科大学の創設者である吉岡彌生。西の大関には、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で教育学などを学び、新渡戸稲造とともに東京女子大学を創設した安井てつと、そうそうたるメンバーが連なる中で、峯島喜代がトップとなっている。

とはいえ、前述の女性実業家たちに比べて喜代の知名度は高くない。この女性、いかなる人物だったのだろうか――。

峯島喜代は、江戸時代から続く質屋「尾張屋」を営む峯島家の三女として、天保4(1833)年に生まれた。姉(長女)が峯島家の4代目(峯島茂兵衛)を婿に迎えたが、その姉が若くして亡くなったことから、嘉永2(1849)年、喜代が4代目の再婚相手となる。

ところが明治9(1876)年、4代目である夫が逝去したため、当時は非常に珍しかったが、女性である喜代が峯島家5代目を継承した。

明治16(1883)年には、養子(子を幼くして亡くし、その後も子宝に恵まれなかったため)に6代目峯島茂兵衛を継がせたため、わずか7年の当主であったが、それ以降も自分のことを「大旦那」と呼ばせ、大正7(1918)年、86歳で亡くなるまで家業に努めた。

渋沢栄一との意外な関係

仕事についてはとても厳しく、小僧を連れて朝早く市電で30軒以上あった傘下の質屋を訪れ、開店準備の遅い店があると強く叱ったと伝わっている。とても背の高い専之助という小僧を連れているときに、外に出ていた目ざとい店員が見つけて、主人に「向うから専さんが大旦那様のお供をして参りました」と告げた。

今起きたばかりの家中は、それは大変、火事場のような騒ぎで、掃除をしてお湯の準備をして、大旦那が到着したときには、店は整然として熱いお茶が出せた。大旦那の喜代は「お前の処は早いのう、早いのう」と喜んだという。

また、渋沢栄一や大倉喜八郎など財界人との交流もあり、渋沢のことを「お前さん」と呼んでいた。渋沢が、自分のことを「お前さん」と呼ぶのは峯島喜代だけだ、と述べたと伝わっている。渋沢は喜代の亡くなった後につくられた銅像に、「峯島喜代子像」と揮毫きごうしている。