東京・新宿の歌舞伎町には、歌舞伎を見られる劇場はない。なぜ「歌舞伎町」というのか。新宿歴史博物館の元館長・橋口敏男さんの著書『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)より紹介する――。(第2回)
ゴジラのオブジェと歌舞伎町の夜景=2015年5月6日、東京都新宿区
写真=時事通信フォト
ゴジラのオブジェと歌舞伎町の夜景=2015年5月6日、東京都新宿区

空襲で焼け野原になった新宿歌舞伎町

新宿は戦災で歌舞伎町も含めて焼け野原となってしまった。何もないところから始まった復興計画。それを立てたのは、役人や政治家ではなく、いち町会長だった。

その人、角筈一丁目北町会長(現・歌舞伎町一丁目)を務めた鈴木喜兵衛の活躍を鈴木の著書『歌舞伎町』などをもとに追っていきたい。

鈴木は明治24(1891)年、三重県生まれ。海外雄飛の夢を抱いて上京して、アメリカやイギリスの大使館でコックを務めている。大正11(1922)年に新宿大ガードのそばに大洋軒というレストランを開業。2年後に、レストランを発展解消して缶詰のスープやカレーを製造販売する「鈴木喜兵衛商店」を、角筈一丁目(現・歌舞伎町一丁目)に開業した。昭和18(1943)年に、角筈一丁目北町会町会長になっている。

昭和20(1945)年4月13日午後9時頃、警戒警報のサイレンが鳴った。鈴木が町会員である医師宅の防空ごうで、救護の打ち合わせをして外に出てみると、第五高女の前あたりから町会の事務所より南に紅蓮の炎がメラメラと立ち昇り、黒煙が渦巻いていた。

翌14日の午前2時頃には歌舞伎町はほぼ焼け野原になった。警察に炊き出しを依頼するも難しいといわれるが、乾パン2000人分を手に入れることができ、8時30分に1800数十名に朝食を配給することができた。

現・歌舞伎町一丁目に多くの人が住んでいたことに驚きである(現住民は令和5年1月1日現在で156人)。その後、多くが疎開していき、19日にはほとんどの者が立ち退いたという。20日に、戦争が終わったら協力して町会の再建を行うと申し合わせて、町会の解散をした。