廃墟に咲くカボチャの花

戦災後に鈴木が疎開したのが、妻の実家がある中禅寺湖(栃木県)である。中禅寺湖畔の英国大使館の別荘隣りにある、南五番の別荘に身を寄せた。

この場所で鈴木は8月15日の終戦を迎える。天皇陛下の玉音放送を聴いた鈴木は「悲しいのか? 憤激したいのか? 戦争が終つて安心なのか?」(原文ママ)と、複雑な感情が湧き上がってきたという。その日、これからの日本の姿を鈴木は思い描く。

「そうだ 観光国策 之れは必ず取り上げられるに違いない 各国に憎まれる心配もない (中略)彼等が東京の焼野原に立つた時 新宿に整然とした復興の街のある事を見せてやる 計画復興だ 観光国策の一環として 道義的繁華街の創造をする」(原文ママ)

そんなことを考え就寝したのは、日付も変わった8月16日午前3時過ぎだった。

翌々日の8月18日早朝に、復興計画の構想を胸に鈴木は中禅寺湖を出発する。

歌舞伎町の焼け跡に駆けつけると、カボチャの黄色い花が妍をきそうように咲き乱れ、まち中の廃墟を覆うようにその太い茎や葉が青々と生い茂り、平和な春の野面を思わせるようだったという。北多摩の青年団や有志の人たちが、都バス車庫裏一帯の焼け跡を片付け、カボチャの種を蒔いてくれていたのだ。

その日の夜は、町会の庶務部総代で、戦前に米穀商を営んでいた杉山健三郎氏を訪ねてこう切り出している。

「復興協力会を造り借地権を一本に纏め土地を自由にする事を地主から任せて貰い 役所に頼んで都市計画をして貰う 新らしく道路を付け直して区画を整理してから 適当に地割をして会員に建築をさせる そうして世間でまごまごして居る間に道義的な繁華街に仕上げる こう云う計画です」

さらに鈴木は、「地主はどうにかなると思うが、借地権の一本化が課題だ」と語り、杉山も「できる限りのお手伝いをしましょう」と応えた。こうして復興協力会の設立趣意書をつくり、8月23日には町会員宛の発送にこぎ着けている。ここまでで、終戦日の8月15日から、わずか8日である。

大地主・峯島家の判断

峯島家は大正時代に歌舞伎町の池を埋め立てて住宅地としてからも、地主として歌舞伎町に残っていた。いつでも土地の権利問題が都市計画の実現の前に立ちはだかるのだが、その点、歌舞伎町は峯島家が大地主(町会面積の約3分の1を所有)として残っていたことで、峯島家を説得できれば計画の実現性は大いに高まることになった。

九月に鈴木は杉並にある尾張屋7代目〔尾張屋土地(株)2代目社長〕峯島茂兵衛の屋敷を訪ねている。鈴木は緊張してどうやって峯島氏に話したか覚えていないと語っているが、同席者の記憶では、歌舞伎町の復興計画を熱く語り、峯島の同意を取り付けることができた。

峯島家は戦後、財産税などもあり厳しい経営状況だった。そのため、歌舞伎町では所有の不動産の底地を販売していて、今現在の所有地はわずかになっている。後に、第五高等女学校跡地を東宝に売却しているのだが、鈴木の要請を受けたのか、市場価値に比較して低額で販売し、まちづくりに協力している。