「大旦那」の大きな仕事

喜代が大旦那として事業を拡大した尾張屋の歴史を繙いてみたい。

尾張屋は、宝暦13(1763)年、初代峯島茂兵衛が「尾張屋」の屋号をもって、江戸で質屋として開業した。独立を目指した店員には質金を援助して、屋号を「尾張屋」とした同業質屋(下質)として出店させた。

尾張屋本店は次第に下質に貸し付けを行う親質となっていく。あまりにも尾張屋の名が多くなりすぎたので、目立つことをさけて「相模屋」を名乗らせる場合もあったという。

明治時代に尾張屋は躍進するが、そのきっかけとなったのは秩禄ちつろく公債である。明治になって武士は士族となったが、幕府や藩からの石高に応じた給料、秩禄については引き続き支払われた。

その秩禄を自主的に返納したものに与えたのが、明治6(1873)年に発行した秩禄公債である。ところが、下級武士は生活が苦しく、収入を得るために売却するものが多かった。尾張屋では、売りに出された公債を買い上げていた。

明治10(1877)年の西南戦争時には秩禄公債の相場が暴落し、尾張屋は暴落した公債を大量に買い上げることで利益を上げた。この買い上げは、4代目死去の翌年のことであり、5代目喜代の大きな功績である。

東京で知らぬ者はいない大地主に

尾張屋の不動産開発は明治19(1886)年からである。買い上げていた公債の値上がりを見逃さずに売却し、それを購入資金として、3代将軍徳川家光の乳母・春日局の家である稲葉家屋敷6000坪(神田小川町)を買い上げた。

橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)
橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)

不動産投資を主導したのは喜代だった。買収した土地を、借地人に賃貸して運用。大正時代に入ると、現在の文京区千石、杉並区の堀之内や横浜の鶴見などで、買収した土地を宅地として分譲した。不動産事業により、尾張屋は東京市内で1、2を争う大地主となっていった。

明治33(1900)年に、傘下の質屋に金融を行っていた部門を独立させ、尾張屋銀行を創設した。こちらは6代目の采配だといわれる。支店数は最大7店舗で、配当も年1割を続けていた。

しかし昭和2(1927)年に昭和恐慌の影響を受け、新銀行の昭和銀行に吸収合併される形で、その歴史に幕を閉じた。当時は中小銀行が取り付け騒ぎを起こし、倒産する例が多かったが、尾張屋銀行は引き出しにはすべて応じ、廃業となったが尾張屋グループの信用はさらに上がったという。

明治44(1911)年には、不動産を管理・運用する尾張屋信託(株)(大正11年に現社名の尾張屋土地(株)に商号変更/初代社長は6代目当主峯島茂兵衛)が開業した。