守護大名たちはくじを引いた

義持には若死にした義量以外に息子がいませんでしたが、四人の弟がいました。いずれも剃髪し仏門に入っていましたが、この四人の弟たちを候補に、彼らのうちのひとりを次期将軍にしようということになります。守護大名たちは話し合い、石清水八幡宮でくじ引きをして決めることにしました。

時の管領で守護大名の代表格だったのは畠山満家でしたが、この人が、石清水八幡宮の社頭でそれぞれの候補者の名前を書いたくじを引き、幕府に戻って開封しました。すると、そこに記されていたのは青蓮院義円という名でした。この義円は、義持と母親が同じ弟で、青蓮院の門跡となり、天台座主にもなった人物でした。

くじを引いて決めたというのは、いわば神慮に委ねたということです。神に判断を任せたことになります。八幡神は武士を守護する神ですから、石清水八幡宮でくじを引くというのは、それなりに理にかなっていたとも言えます。富士の裾野の大巻狩りで、源頼朝の後継者として頼家が神から承認を受けた話を思い出してください。当時、神意を聴くということは、一定の説得力を持つことだったと考えられます。

義持のブレーンによる八百長だった?

神の意志。中世研究者はそこに疑いを持ちません。本当にそうでしょうか。人がワルい私は、そんなに素直に神を信じることができません。つまり、このときのくじ引きは八百長だったのだろうと考えているのです。おそらく、4つのくじには、すべてに「青蓮院義円」と書いてあったのではないか。

私の見立てでは、おそらくこの義円を後継者にするべくプロデュースしたのは、三宝院満済という醍醐寺の僧侶です。満済はもともと摂関家(五摂家のうち二条家)の分家・今小路家の出身で、父親の極官(最高の官職)は大納言でした。若い頃から足利義満に才覚を認められ、非常に可愛がられていた。おそらく、男色の関係にあったのではないかと思われます。

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この三宝院という院家は、足利将軍家とこれ以上ないほど密なる結びつきを持っている寺です。当時の天台宗や真言宗の僧の最上位に位置するのは、将軍を祈りのパワーで守る護持僧という存在でした。将軍の護持僧は10人ほどからなり、12人であるときは毎月それぞれ担当者を決め、将軍の平安や無病息災を祈っていました。

彼らこそは当時の仏教界のトップであり、それらを構成するのは摂関家出身者がほとんどでした。そうした僧侶に自分の利益りやく増進を祈らせるのですから、当時の足利将軍家は摂関家すら凌ぐ力を持っていたことになりますが、その護持僧を束ねる役目を担ったのが、この三宝院の門主でした。