読めない名前は必ず誰かの迷惑になる
子供はやがて学校に通い、病気になれば医者の世話になる。今、読めない名前のために教育現場や医療現場は仕事の負担が大きくなっているが、医師や教師は我慢して苦情は言いたてないし、名づけをする親も見えない人たちには気をまわさない。
本人が社会へ出れば、厳粛な場で氏名を呼ばれることもある。読めない名前では読み間違いされたり、あまりに奇抜な名前は失笑を買ったりすることもある。
もし意識不明の状態で病院に搬送でもされたら、読めない名前のために混乱して処置が遅れたり、運悪く患者を取り違えたりしたら他人の命にまで関わる。
そういうことをあれこれ考えながらやるのが名づけである。でも実際は「人に読めなくても気になりません」「こう読ませりゃいいでしょ」と言う人も少なくない。それはその人の知能が低いのでも、性格がゆがんでいるのでもない。社会という言葉を聞いても知人の顔しか浮かばず、知らない人がひしめく広い社会のイメージが浮かばないのである。
じつは名前は「社会の共有物」である
「名前は本人の持ち物だ、どう扱おうが自由だ」と誤解されることもあるが、じつは名前というのは社会の共有物なのである。看板やポスターと同じで、作る時は個人の作品でも、公共の場に貼り出されたら社会の共有物である。自分が作るのだから何を描こうが自由だ、人に読めなくてもいい、というものではない。
もちろん名前によって本人の性格や生き方が決まるわけではないが、名づけをした時の親の感覚、姿勢というのは子に伝わりやすい。他人や社会に背を向けたような名づけをすれば、その感覚、姿勢が子に伝わってしまう心配はある。
文字というのは、読み方のルールがあってはじめて社会で機能するもので、漢字の読み方は個人が勝手に決めるものではない。そんなことをすれば漢字は文字として機能せず、名前も本人にしか読めなくなって名前として機能しなくなる。
筆者自身も恭仁雄(くにお)という誰にも読めない名前のため、人さまに散々迷惑をかけてきた。自分だって、読めない名前の人から手紙などいただけば、「カナくらいふってほしいよ」と言いたくなる。
「この名前で本当に納得できるか」と自問自答をくり返す
そこで、ぜひとも世に広まってほしいのは、自分の人生体験、社会体験としての名づけなのである。自分自身の意志と感性で、量より「質」に目を向ける名づけである。
例えば他人のやっている名づけをキョロキョロ気にしたり、片手でスマホをいじったりしながら、どこかの誰かが大量にまいた名前をながめても、それは体験ではない。自分という人間がどこにも居ない。
名前をつける相手は、まぎれもない自分自身の子である。子供の名前は、何十年もの長い人生の中で、さまざまな場面で本人も他人も使う大切なものである。そのことを実感しながら、「この名前で本当に自分が納得できるか」と自問自答をくり返す。
それが自分を見失わない、自分ならではの体験である。このような名づけであれば、本人や他人が困るような名前にたどりつくことはないのである。