総長の式辞を学生はどう聞いたか
ところで件の入学式に出席していたと思われる学生の中には、その後戦地に赴いて「名誉の戦死」を遂げ、平賀総長が繰り返し言及している「護国の英霊」となった者も少なくありませんでした。東大戦没学生の手記を集めて戦後の1947年12月に出版された『はるかなる山河に』には、1942年4月に入学しながらほどなく戦死することになる何人かの手記が収められています。
そのひとりである佐々木八郎は、1922年(大正11年)3月7日生まれ、第一高等学校を経て経済学部に入学しています。彼の手記は「“愛”と“戦”と“死”─宮沢賢治作『烏の北斗七星』に関連して─」と題されていて、「僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人」の短編について述べたものですが、烏の大尉が敵の山烏との戦いに勝利しながらも、その遺体を手厚く葬りながら、「マヂエルの星」(大熊座、北斗七星)に向かって「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません」と祈る場面に深い感銘を受けたことが、率直な筆致で書かれています。
「国籍が異なるというだけでなぜ殺さなければならないのか」
もしかすると友愛の情で結ばれるかもしれない相手を、国籍が異なるからというだけでなぜ憎まなければならないのか、憎むことのできない敵をなぜ殺さなければならないのか──こうした思いを抱きながら戦地に赴いた学生たちも、少なくなかったにちがいありません。「私を滅し公に奉じ、大義のためには身命を賭する」ことを説く平賀総長の入学式式辞を、彼らはどのような思いで聞いていたのでしょうか。また逆に、平賀総長はそうした学生たちの思いをどこまで想像できていたのでしょうか。
佐々木八郎がこの手記を記したのは1943年(昭和18年)11月10日、後で触れる学徒出陣に際してのことでした。軍の指導者たちの言葉を「単なる民衆煽動のための空念仏としか響かない」と喝破していた彼は、やがて同年12月に出征し、1945年(昭和20年)4月14日、終戦まであと4カ月というところで、特攻隊員として出撃した沖縄海上で戦死しています。