「軍艦の神様」と呼ばれる筋金入りの軍人だった

年が明けて、1942年(昭和17年)4月1日の入学式でも、新入生に向けて日本軍の武勲と戦果を賛美する言葉が述べられていますが、これと同時に、日本が天皇を頂点とするひとつの家族国家であり、教育の本義は皇室への忠孝心を教え込むことにあるという強固な信念も披瀝ひれきされています。

謹んでおもんみまするに、我が国は、畏くも万世一系の皇室を宗家と仰ぎ奉る、一大家族国家でありまして、君に対する忠はまた父祖に対する孝となり、家庭生活に於ける父祖への孝は祖先の大宗たいそうたる皇室に対し奉るの忠に達し、君臣の本義は永遠に明かなると共に、その間親子の如き情誼を湛へ、忠孝一如いちにょの美風をもたらきたつたのであります。これまこと万古不易ばんこふえきの我が国体の精華であります。しかして我が国の教育は先づ何よりも、この家族国家の核心をなす忠孝一如の道を如実に体得せしむるを、その第一義とすることいふ迄もありません。

天皇に忠義を尽くすことは、すなわち父祖に孝行することであり、逆もまたしかりであって、主君に仕えることと家長に従うことは同じである(忠孝一如)、そしてこの変わることのないわが国ならではの道義を教え込むことこそが教育の第一の役目である、というわけで、家父長制礼賛の典型のような内容です。

平賀譲は大学卒業後、海軍の造船技師として勤務していた経験をもち、その後は「長門」や「陸奥」を始めとして、日本海軍のおもだった戦艦の設計を次々に手がけ、「軍艦の神様」と呼ばれるまでになった筋金入りの軍人でしたから、その思想がこうした純粋な皇国史観に染めあげられたのも、無理はありません。

軍国主義と大学自治の「板挟み」も垣間見える

もちろん彼の式辞にはこれから学問に臨む学生たちに向けての心得を説く言葉も見られますが、そこにも「諸君の今日あるは、諸君がよき素質を享けたる上に、多年蛍雪の功をかさねたるが故でありますが、これ畢竟ひっきょう聖代の恵沢けいたくに外ならぬのであります」という一節があり、学生たちが学問にうちこめるのも、あくまで「聖代の恵沢」、すなわち天皇による治世のおかげなのである、ということが強調されています。

石井洋二郎『東京大学の式辞』(新潮新書)
石井洋二郎『東京大学の式辞』(新潮新書)

こうしてみると、平賀総長はごちごちの国家主義者のように思われるかもしれませんが、一方では太平洋戦争開戦直前の1941年10月、勅令によって学徒動員のための修業年限短縮が定められたさいにはこれに反対の立場を表明するなど、大学に軍国主義が介入することを防ごうとしたことも知られており、戦後リベラリズムに繋がる思想の持主であったという評価もあることは、記しておかなければなりません。

戦争に向かって突き進む国策には基本的に従いながらも、大学の自治はあくまで守ろうとした彼のスタンスは、押しとどめることのできない時流によって不本意ながらも強いられた、文字通りの「板挟み」であったように思われます。