反天皇制・反軍国主義が赤裸々に記された日記
1942年(昭和17年)9月25日には半年繰り上げての卒業式が催され、このときは内閣総理大臣の東條英機が軍服姿で出席して演説をおこなっています。また、文部大臣の橋田邦彦も一緒に臨席していましたが、彼はもと東京大学教授で、実験生理学の開拓者として知られる生理学者・医学者です。大学の修業年限を短縮して学徒動員を進めようとする軍部と、これに抵抗する諸大学の間に立って、困難な調整役を務めましたが、彼自身は軍部の意向に反対の立場で、東條英機とはそりが合わなかったとも言われています。
しかし戦後はGHQによってA級戦犯容疑者とされ、警察が自宅に迎えにきたときに服毒自殺しました。彼もまた、戦死者とは別の意味で戦争の犠牲者だったと言えるでしょう。
卒業式から1週間後の10月1日には、例外的にこの年2度目となる入学式が挙行されています。そこに出席して平賀総長の式辞を聞いていたと思われるもうひとりの学生が、終戦間近な1945年5月6日に記した日記から──
灰燼の中から新たな日本を創り出すのだ。国体を云々する輩のため日本は小さな跼蹐たる世界に齷齪していた。新緑の萌え出るような希望と明るさ、生命の躍動した日本を。日本の今までの国がわれわれの希望であったことは否定出来ぬ。また万世一系の皇統を云々する心微塵もない。だがその皇統、国体のゆえに、神勅あるがゆえに現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の趨くべき開展を阻止せんとした軍部、固陋なる愛国主義者。彼らが大御稜威をさまたげ日本を左右して来たのが最近のありさま。宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親とむつび、皆が助け合いたい。
終戦3カ月前というところで戦災死を遂げた
「宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい」などは、当局に見つかれば逮捕間違いなしの言葉に満ちた、歯に衣着せぬ反天皇制・反軍国主義の内容ですが、人間性と隣人愛への純粋な志向は佐々木八郎と共通しています。
書き手は住吉胡之吉、1921年(大正10年)2月15日生まれで、1942年10月、平賀総長が主導して戦争に役立つ人材の育成を目的に千葉市の弥生町に新設されたばかりの第二工学部電気工学科に入学した学生です。彼は理系学生だったので、翌年の学徒出陣の対象にはなりませんでしたが、1944年末から航空研究所に動員され、この日記を記してまもない1945年5月24日、自宅に戻っていたところで家族6人とともに戦災死を遂げました。