「受け身のキャリア」という誤解
では、こうした「足場」が構築されれば、日本人は学ぶようになるのでしょうか。外部労働市場の機能を拡充しようという動きはかねてからありますが、問題はそれほど単純ではありません。そのことを考えるために、次に、よりミクロな側面、個人のキャリアに即してこの「学ばなさ」を考えていきましょう。
世間には、「キャリア論」と呼ばれるような一群の言説領域があります。実証的な学術研究というよりも、「時代がこう変わったから、これからのキャリアはこうなる(べきだ)」という規範的な「意見」に近いものです。そうした「キャリア論」を打つ人々の多くは、大学教授、スタートアップ経営者、ノマドワーカーなど、独立独歩で成功を収めてきた人々です。
昔から、こうした「キャリア論」の中で、槍玉に挙げられ、仮想敵にされてきたのが日本の「普通の」キャリアです。普通の日本人のキャリアはあまりにも「受け身」で、「受動的」だと言われてきました。
たしかに、日本の正規雇用は、「配属ガチャ」と揶揄されるように、ポジション転換が業務命令として行われ、勤務地まで企業に握られます。長期雇用の慣習もまた「企業に囚われている」というイメージに一役買うことになります。そうした特徴を指しながら、「日本は受け身のキャリア観しか持っていない」「組織に依存せず、好きなことをして働こう」――通俗的な「キャリア論」はこのように問いかけます。
しかし、現実を冷静に見てみれば、ブラック企業で拘束的に働いてしまっている人を除けば、日本の普通の会社員のキャリアは、そのような「受け身」のような単純な言葉で覆い尽くせるものではありません。
実際に目にするのは、キャリアの主導権を企業に握られつつも、「なんだかんだ、そこそこ主体的に」働いている多くの会社員の姿です。すごく仕事を楽しんでいるわけでは無いけれど、とはいえ居酒屋で愚痴るくらいの不満しか抱えません。
問題は「中途半端さ」にある
「受け身」のキャリアのシンボルのように語られる業務命令異動やジョブ・ローテーションも、「飽きが来ない」「新しい人との出会いがある」「成長できる」ものとして前向きに捉えている人も多いです。
そうした人々にとっては、先ほどのような「受け身なキャリア/能動的なキャリア」という対比は他人事です。日本の「学ばなさ」を考えるにあたって目を向けるべきは、日本のキャリアの受け身さではなく、この「中途半端さ」そのものです。