ネームバリューが必要だった
松平家が源氏とつながるというのは家康の祖父の清康のころから喧伝されるようになったのだが、確かな系図上では始祖・親氏より前にはさかのぼることはできず、実際に源義家に連なる血統であるという証拠はどこにもない。
家康は三河国の支配権を確立するために天皇から従五位下三河守叙任の勅許を得る必要があり、公家たちを巻き込んでそれらしい由緒をかき集め、自身が尊い血統につながるとする系図を捏造したのだ。
なお、こういった系図の捏造は、当時としては特段珍しいことではない。戦国乱世では下剋上による支配権の簒奪が日常茶飯事であり、権威の箔付けのために系図や官位官職等の売買が普通に行われていた。家康はこれ以降も随時系図の補完を進めている。
しかし、徳川家康という名はなんとも野心的である。
もちろんこの改名が表向きは三河支配の正当性確立のためのものだったことは先に述べた通りだ。三河と領地を接する今川家は足利家の支流という名門であるから、それに対抗しうるネームバリューが必要という側面もあっただろう。
家康が志を立てた時
しかし、意味合いとすれば自身がスーパーヒーロー・八幡太郎義家の末裔であり、源頼朝、足利尊氏という幕府創業のビッグネームにつながることを暗に主張するものなのだ。三河一国の統治で満足するような人物の名前とはとても思えない。
「次に幕府が開かれるとしたら、その頂点に自分が立つ」と、家康がひそかに志を立てたのはこの時だったのかもしれないと私は妄想している。
徳川家康とは、そういう妄想を掻き立てるようなスケール感をもった名前なのだ。
実際に家康は、その後、今川義元の旧領の遠江国(静岡県西部)・駿河国(静岡県中部)へと破竹の勢いで勢力を伸ばし、「海道一の弓取り」と賞されるほどの力をつけていった。
なぜ秀吉の家臣になることを承諾したのか
天正10年(1582)に本能寺の変で同盟相手の織田信長が討たれると、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)も平定してさらに領土を拡大。
天正12年(1584)には、織田信長の後継者として全国統一に向けて動き出した羽柴秀吉と、小牧・長久手の戦いで激突した。
戦いは膠着し、家康は兵を引きはしたが完全に敗北したわけではなかった。秀吉は、家康との不和が長引けば全国統一にも差しさわりが出るため、自身の妹を家康の継室に、母を人質に差し出すなどして懐柔工作を進めた。家康はそれだけ大きな存在になっていたのだ。
そして2年後についに秀吉に臣従することを承諾。これをもって家康は羽柴秀吉の家臣になったわけであるが、家康はそのポジションを良しとしたのだろうか。