アイデンティティは岡崎ではない
想像をたくましくすると、家康は1603年に征夷大将軍になってから大坂から江戸城に帰る。そして江戸城で暮らし将軍として日本全国の大名に号令をかける。さらに2年後の1605年に将軍職を息子の秀忠(1579-1632)に譲って、秀忠が二代目将軍になる。そうして隠居した家康が江戸を去ってどこに落ち着いたかというと、駿府に行った。
父祖からの故郷であるはずの岡崎には戻りませんでした。たしかに駿府は名古屋と江戸の中間にあって、東海地方の重要ポイントになる。だから家康が隠居場所として駿府を選んだのは悪くない選択です。
しかしおそらくこのときの家康は将軍職を息子に譲って、自分自身はもう暮らすのに一番気持ちいいところを選んだのだと思うのです。江戸城は秀忠に任せた。名古屋城にも息子の徳川義直(1600-1650)を置き、しかも天下普請ということで、大名たちにみんな寄ってたかって名古屋城を造らせた。
名古屋から江戸までずっと徳川領です。そのどこにでも住みたいところに住んでよかったわけですが、家康は岡崎ではなく、駿府に行った。
もしも家康が自分のアイデンティティを岡崎に置いていたのであれば、隠居したのち、岡崎城に帰ったことでしょう。「岡崎城だと規模が小さい」というのであれば、そこでまた大々的に天下普請を行って大きくすればいいだけのことです。
しかし家康としては岡崎よりも駿府のほうが好きだった。
どの土地で精神形成されたかというと岡崎ではない。おそらく彼のアイデンティティは、人質として幼少期から過ごした駿府にあった。
駿府は昔からの今川の本拠地。伝統もあるし、最新文化も取り入れている。いってみれば都会です。家康は都会で育ったシティボーイだったのです。
「あいつら、育ち悪いもんな」
その彼にしてみたら三河の岡崎は田舎。正直、肌に合わなかったのだと思います。
だから彼は、そもそも三河武士のことをそんなに好きではなかったのではないでしょうか。「あいつら、育ち悪いもんな」みたいな、そうした感情が根っこのところにあったのではないか。
実際に家康には、どうも岡崎の武士たちを信用してなかったフシがあります。だからこそ、今川の一武将という立場から離れて「これからは独立して松平家を興そう!」といったときに、いの一番に岡崎城に入ることができなかった。
三河武士に対して「俺のことを本当に大事にしてくれるのか?」という疑念があったために、岡崎城ではなくまず大樹寺に入って、様子をうかがっていたのではないでしょうか。実際問題として、大樹寺に攻めてきたのは家康の親類だったらしい。
しかしそれもどこまで本当かなと思います。岡崎で大樹寺に攻め込むとしたらやっぱり地元の三河の武士ではないのかな。時代は戦国時代です。家康の首をあげて一旗揚げてやろうという武士もふつうにいたことでしょう。