三河一向一揆でも家臣たちは裏切った
岡崎に帰還したのち、家康は三河を平定する動きを示します。三河統一の過程で彼が陥った最大の窮地は、一向一揆との戦いでした。
一向宗とは浄土宗の教えの一派で、一向一揆とはその門徒たちが起こした大名支配への反乱です。これが三河で起きた。
そのとき、相当数の三河武士たちが一向宗側についてしまうのです。一番有名なケースは、のちに家康の参謀として働くことになる本多正信。彼もこのとき一向一揆のほうについた。
主人を敵に回して戦うことを選んだのです。このあたりは当時の武士の面白いところで、戦国武士は、とにかく忠実であることが要求された江戸時代の武士とは違うのです。
「自分の働きを評価してくれない主人だったら見限っても全然構いません」という価値観の中で動いている。
彼らと比べると、むしろ昭和のビジネスパーソンの人たちのほうがよっぽど会社に忠誠心をもっていましたね。ひとつの会社にずっと勤め続けて、その会社のために一生を捧げるのが当たり前だった。そちらのほうがよほど忠誠心が高いという話です。
最近の方たちはわりとドライに、いい報酬を提示されたら転職するとなるようですから、そこはどちらかというと戦国時代の武士に似ています。
それはともかくこの時代の武士は主人への忠義が絶対ということではない。だからこのときの三河武士のように、信仰と主人への忠誠の板ばさみになって「信仰のほうをとる」ということもありました。
それは主人からすると裏切りですから、この事実を見ても三河武士団が心からの忠誠を松平家に誓っていたという話は真実ではない、ということになります。
なぜ裏切った家臣を許したのか
本多正信は、一揆ののち、家康に顔向けできないということで、長く放浪の旅に出ます。やっと帰ってきたのは「本能寺の変」(1582)のあと、堺にいた家康が命からがら脱出する「神君伊賀越え」のときあたりですから、家来といってもそのキャリアには、相当の断絶があったわけです。
しかし「主人に弓を引いた」という事態は、やはり相当まずい。それを三河の武士たちはやってしまった。
実際に一度は敵になったわけで、こうした武士たちのことを家康が心から信頼することはできなかったとしても無理はない。ただ家康は、信長のように一向宗を皆殺しにするようなことはやっていません。
一揆勢として敵方についた武士たちも「許してやるから帰ってこい」ということで、元に戻しています。よく我慢して家来に復帰させたなと思いますし、また「復帰を許さないとやっていけない程度の勢力だった」ということでもあったのでしょう。