織田信長は1582年6月、家臣の明智光秀に突如襲撃されて49歳で自害した。日本史に残るクーデターである本能寺の変はなぜ成功したのか。文芸評論家の秋山駿さんの著書『信長』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
錦絵 本能寺焼討之図
錦絵 本能寺焼討之図(画像=楊斎延一/名古屋市所蔵/ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

光秀だからこそ行き着いた破天荒な考え

ときは今あめがした知る五月さつきかな 光秀

公然たるクーデターの決意表明である。悲劇はここから始まる。

光秀には決意の表明が必要であった。たとえその真意人に知られなくとも、自分に私心なく、クーデターは天下のためにするのだ、と。

建前ではなく本音である。逆臣とか謀反という言葉ほど、光秀の心事から遠いものはあるまい。天下のためにする。そうみずから信じ、信ずるところへ自分の心を駆った。

実際このとき、信長を倒すなどとは、破天荒な考えであった。信長が始動させはじめた時代の回転の歯車はもう停められぬ、どんな手によっても止められぬ、とは誰もが感じていたであろう。倒したとしても、信長が創始した驚くべき発明と創造の数々、いったい誰がその後を受け継ぐのか?

したがって逆説的だが、信長の打倒は、信長と積年行動を共にした者にしか考えられぬことであった。歯車の回転は良い、自分もそれは熟知している、しかしいまや操縦手が暴走を始めた、これは止めなければならぬ、と。

「あめがした知る」とは、そういう意味であろう。

剛毅な男、信長を討つのは非常に容易だった

小説的視点を採用すれば、どんな理想の裏にも、現実の上を土足で歩くための泥が付いているのであり、私は、光秀が弱年の頃、「どうすれば最も有名な人間になれるかと訊かれたのに対して『最も有名な人間を殺せばいい。』と云つた」(『プルターク英雄伝』「アレクサンドロス」)などと、言ってくれているとありがたいのだが、それは見られない。

光秀は、ただ天下のために良いことをするつもりだった。ただし、人々の喝采は当てにしていたらしい。

戦国期に傑出した武将として、光秀はどう考えたか。

信長は討つ。これは、近く信長が京都に出向くという情報を得ていれば、非常に容易なことであろう。剛毅な男の常として、彼は少数の部下と共に敏活に行動するから。