部下たちが光秀の計画に従った理由
次の外国人の推測、意外に本当であろう。
「一同は呆然自失したようになり、一方、この企画の重大さと危険の切迫を知り、他面、話が終ると、彼に思い留まらせることも、まさにまた、彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを見、感じている焦慮の色をありありと浮べ、返答に先立って、互いに顔を見合わせるばかりであったが、そこは果敢で勇気のある日本人のことなので、すでに彼がこの企てを決行する意志をあれほどまで固めているからには、それに従うほかはなく、全員挙げて彼への忠誠を示し生命を捧げる覚悟である、と答えた。」(フロイス『日本史5』傍線引用者)
夜半、一万三千の光秀軍が出立する。このあたり、繰り返しになるが、頼山陽の名調子が欲しい。
「夜、大江山を度り、老坂に至る。右折すれば則ち備中に走くの道なり。光秀乃ち馬首を左にして馳す。士卒驚き異しむ。既に桂川を渉る。光秀乃ち鞭を挙げて東を指し、揚言(※揚の偏が手ではなく風)して曰く、『吾が敵は本能寺に在り』と。衆始めてその反を知る。」(『日本外史』)
行く手の方角違いに不審を抱く士卒には、「立派な軍容を信長に見せるのだ」とか、信長の命で「家康を討つのだ」とか思わせた(フロイス)というが、偶然がすべてをこれほどお膳立てしてくれたクーデターはあるまい。
信長は「油断」していたわけではない
信長は、五月二十九日午後四時頃、小姓衆二、三十人を召し連れただけで本能寺に入った。
家臣団を率いていないので、信長の「油断」を指摘する向きもあるが、それは当らない。そういう油断をしない男、つまり用心する男に、桶狭間以前の信長の戦争が可能なわけはない。ただ、彼は剛胆な漢なのだ。
「剛胆とは、大きな危難に直面した時に襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、恐怖などを寄せつけない境地に達した、桁はずれの精神力である。そして、英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても己れを平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この力によるのである。」(『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳)
そんな剛胆を、絶えず日常の中で持ち歩いていた漢を、努めて想像してみよう。あるいは、こう言ってもいい。
自分の死について、信長はそんなことを考えもしなかったろうが、聞かれれば、カエサルと同じように答えたろう。
「どういふ死に方が一番いいかといふ話になると、カエサルは誰よりも先に大きな声で『思ひも懸けない死だ。』と云つた。」(『プルターク英雄伝』「カエサル」)