太政大臣・関白・征夷大将軍という三択

ここで、『信長公記』が記してはいない事柄に触れておこう。

無冠の信長への、朝廷による「三職推任」である。

「すなわち、天正十年三月甲斐の武田勝頼を滅し、関東を鎮定した信長が安土に凱旋がいせんすると、翌四月二十二日朝廷は直ちに勧修寺晴豊はれとよを勅使として下向せしめ、戦勝を祝賀した。二十五日になると、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官させる旨の朝議を決定し、京都所司代村井貞勝と相談の上、上臈佐五の局と大御乳人阿茶の方に晴豊を付けて安土へ行かせることにした。

三つの官のどれでもというところに、辞官以来の朝廷の困惑が依然として続いている様子がみえる。

使者は五月四日に安土に到着しているが、(中略)晴豊は『関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし』と述べている。かくして、朝廷の意志が将軍任官・幕府開設をすすめるところに集約されたことが明らかとなった。」(朝尾直弘『将軍権力の創出』)

なぜ信長は「将軍」にならなかったのか

信長は、何の返答も与えなかったという。

もっとも、この朝廷側が申し入れた「征夷大将軍」への推任のところ、最近の晴豊公記の研究によれば、村井貞勝つまり信長側が朝廷に要請したとも読めるようで、将軍職任官をめぐっての信長と朝廷との力関係について、解釈が分れるようである。

しかし私は、両者のどちらが申し入れても、それほど意味の違いはないと思う。なぜなら、天下のことが定まったこの時、信長が将軍に任官して幕府を開設することが、信長政権内の多数の者にも朝廷側にも、一致した要請であったろう。そうなれば、信長が始動させた時代回転の歯車が、伝統の秩序とも合体して、理解し易いものになる。「天下布武」の到着点はそうであって欲しい、というのが、光秀などの強い希求であったろう。

信長の行動はただ一つである。決して「将軍」などにはならない。彼は弱年のとき、予備研究として、将軍義輝を訪問した。また、実証として、将軍義昭と現実の政治上で角逐を行なった。信長は考察した、将軍とは何であろうか? この点については、頼山陽の評語に従っておいてもよかろう。

「信長、尾張より起り、常に四方を平定するを以て志となす。虚美きょびを喜ばず。廷臣或は征夷大将軍たらんことを勧む。信長曰く、『吾れ何遽なんぞ室町の故号を襲ぐをなさん』と。」(『日本外史』)