徳川家康の強さとして、よく「主君に忠実で精強な三河武士に支えられた」といわれる。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「史実とは思えない。三河武士は家康を裏切ったこともあるし、さほど強かったわけでもない」という――。

※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。

岡崎公園の徳川家康の銅像(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)
岡崎公園の徳川家康の銅像(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons

「精強にして忠実な三河武士団の家来」は本当か

家康は、織田信長や豊臣秀吉のような天賦の才は持っていなかった。しかし彼には「精強にして忠実な三河武士団の家来がいた」という伝説があります。

その三河の家来たちが、家康がまだ松平元康として駿府で人質になっていた時期、ひたすら殿の帰りを待っていた。そうした夢も希望もある話になっています。

しかしそれは、本当のところどうなのでしょうか。私には疑問があって正直、嘘だろうと思っています。

江戸時代に生まれたプロパガンダ

東海地方の武士の中で、三河武士ばかりが厳しい環境にいたわけではない。だから三河武士だけが戦いに強いということもない。

実際問題、ある時点まで、三河武士は武田と戦えばボロボロに負けていたわけです。そうなると甲斐の武士のほうが強いということになります。

となりの尾張には、織田信長がいる。彼の軍勢がなぜ強かったか。

一時期よく指摘された理由は、「信長の軍はプロ集団だった」という見かた。要するに兵農分離が進み、農業が主体の他国とは違って、戦闘に特化した軍だったという説です。

しかし現実として「となりの国で起きていることが、こちらの国では起きていません」ということは、なかなかないわけですよ。いくら信長が天才であったとしても、楽市楽座は彼が独創的に行っていたわけではなく、同じようなことは他国でも行われていた。

となりの国で行われていてよかった試みは、近隣の国も真似をする。

逆に三河に存在する風土は、となりの尾張や遠江にもある程度は存在したことでしょう。そうした発想をするほうがふつうではないかなと思います。

だから「三河だけ特別で、忠実で精強な武士団がいた」という話はあまり当てにしてはいけない。

大久保彦左衛門(1560-1639)が書いた『三河物語』などで、「三河武士は精強無比。しかも忠実で我慢強く、戦いに強かった」というイメージが広まっていますが、それは家康が天下をとってしまってから、あとづけでつくられた物語です。

結果から逆に導き出された、プロパガンダのようなものと考えるのがふつうでしょう。