プロフェッショナルとは「神の前で語れる」こと
わたしはわたしで、八つ当たりとしか言いようのない仕方でコンビニの店員に激昂した。なにしろ不条理な八つ当たりなのだから、コンビニの店員はとりあえず謝って、わたしの怒りをやり過ごすしか方法がない。だがわたしは、ひたすら謝る店員の姿に自分自身を見ていたのだ。だから店員が謝れば謝るほど、さらに荒れてしまった。店員がわたしにどんな酷いことをしたというのか。あのときのわたしは、警察を呼ばれても仕方がないほどのクレーマーぶりを発揮していた。今思い返しても、自分の幼稚さや暴力性に顔が熱くなる。
交換品のジャケットを持参した店長に、なぜわたしは敬服したのか。彼が「とりあえず謝って済まそうとする」ことを決してしなかったし、そこに「やらされている」という気配がまったくなかったからである。
わたしは店長に、彼自身の意志を感じたのだ。彼は店舗に一時的な損失を出してでも素早い対応をすることで、言葉ではなく態度をもってわたしに向きあったのである。わたしと対面する際にも彼は決して卑屈にはならず、背筋を伸ばし、じつに鷹揚であった。
そうだ。これがプロフェッショナルだ。これこそサービスなのだ。professionalとはラテン語のpro(前で)とfateor(認める)からなるprofiteor(公に告白する)からきている。神と会衆の前でおのが信仰を告白することなのだ。彼が神を信じているかは知らない。無神論でもかまわない。彼は服飾業に対して主観的のみならず、いつでも他人に、つまり公に説明可能な形で向きあっており、その向きあい方に基づいて客に奉仕しているのである。
自分の「軸」があるからこそ柔軟になれる
彼は、苦しいときには何度でも、自分が向きあった原点に立ち返ることだろう。そしてそこからもう一度再出発するだろう。だから彼は客を決して恐れないだろう。客から一時的に嫌悪感を持たれたとしても、店の人気が揺らいだとしても、彼は自分の方針を貫くだろう。
むしろ自分の方針を貫くことによってこそ、彼はさまざまなことに対して柔軟に対応できるだろう。多少の損失など、長い目で見れば取り戻せるだろう。そもそも、そういう長い時間をかけて取り組むこと、長期的なまなざしを持つことができるようになるためには、自分はなにに基づいてこの仕事をしているのかという、自分自身にも客にも表現できる軸が不可欠であろう。