「謝罪」と「糾弾」があふれる世界で

最近は謝罪がどこにでもあふれている。そして謝ったら謝ったで、「その謝り方はなんだ!」とか「謝ったら許されるとか本気で思ってる? なんの反省もほんとうはしていないことが、これではっきりしたわ」と、さらなる糾弾がされる。謝罪する側が疲れ果て倒れるまで、糾弾が終わることはない。なぜああなってしまうのだろうかと、わたしはつねづね考えていた。考えながら、やはり自分自身のことに思い至るのであった。

人間の腕
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わたしは伝道者として初めての任地で働き始めたころ、「誰に対しても開かれた教会」を目指していた。誰に対しても開かれた教会なのだから、みんなの意見に耳を傾けなければならない。みんなの意見に耳を傾けなければならないのだから、誰一人をも排除してはならない。誰一人をも排除してはならないのだから、誰一人傷つけてはならない……そうやって仕事をしていくうちに、わたしはとても息苦しさを感じるようになっていった。

我慢して「やらされている」感覚が生むストレス

誰かが少しでも不愉快そうな表情を浮かべたら、わたしはすぐに謝った。なぜ相手が不愉快に感じているのか、理由は考えなかった。考えていたのかもしれないが、深くは考えなかった。とにかく相手の機嫌を直してもらうこと、それが最優先であった。礼拝のことを英語でworship serviceという。サービスとは神に、そして人に仕えること。だから自分はサービス業のプロフェッショナルなんだ。文句を言わず、相手が喜ぶことを第一に考えよ。それが神も喜ぶことなのだ――わたしはそう思って仕事をしていた。

けれども、それは自分自身に我慢を強いることであった。わたしは仕事を自ら進んでやっているというより、「やらされている」と思うようになってしまった。ほんとうは悪いとぜんぜん思っていないのに、謝らされている。屈辱的であると感じているのに、頭を下げさせられている……そう思えば思うほど、わたしの内部で怒りや憎しみが鬱積していった。

牧師としての仕事を失い、郵便配達のアルバイトをしていたことがある。そのとき、わたしの怒りや憎しみは爆発直前であった。郵便局では上司に、配達先では客に、ひたすら頭を下げ、詫び続ける。ようやく仕事が終わり、疲れ果てて立ち寄ったコンビニで、店員がちょっとお釣りを間違える。あるいは電車に乗ろうとして、見知らぬ人とわずかに肩がぶつかる。そんな程度のことで、わたしは怒鳴り散らすようになっていた。