「サービス」とは人に媚びることではない

わたしも今、ほんの少しずつではあるが、牧師としての、プロフェッショナルなサービスを心掛けることができるようになってきた。神の前に信仰を告白する(プロフェッショナル)。そして神に仕え、人を歓待する礼拝を行う(サービス)。それは人に媚びることではない。相手がわたしに不快を感じたなら、とりあえず頭を下げて済ませるのではなく、立ち止まって考えなければならない。

相手がわたしに不快感を覚えた、その理由はなにか。それは改善できることか。改善できることなら、その具体的な改善策を、わたしは相手に意思表示しなければならない。意思表示することのなかには、言葉だけではなく行動をもって示すことも含まれる。それでも相手が納得しなければ、もうそれでよいのである。その人のことは神に委ねるのだ。

トラブルを人格の問題にしてはいけない

相手とのあいだになんらかのトラブルが生じたとき、それをおのれの人格の問題にしないことは重要である。あくまでそれは、わたしの仕事におけるトラブルでしかない。わたしの人格を否定する必要はないのだ。わたしの人格を問うことは、人の前でするのではなく、神の前ですることである。人の前では、わたしはなにをなすべきかに徹すればよい。

相手に求めることも同様である。相手と思いがすれ違い、訣別したからといって、その人の人格を否定する必要はない。相手の人格や性格の深奥を、わたしはいかほどにも操作することはできないのだから。それは神の領域である。

その場で謝って内心に屈辱を感じるのではなく、相手がなにを言っているのか、それに対して自分はなにができるのかをよく考える。できることをはっきり意思表示し、できないことはできないと答える。それで相手が満足するのか、なおさら怒るのかは、相手の度量に任せればよい。わたしはこう考えるようになってから、とつぜん激昂するということがほとんど無くなった。誰でもいいから自分より弱い立場の人間に八つ当たりしたいという衝動もほぼ消えたと思う。丸く収めるつもりの謝罪が、かえって憎悪を生み出すのだとすれば、これほど悲しいことはない。