ポランスキー刑務所での死刑囚の暮らしぶり
ハメルに死刑判決が下され、タラント郡刑務所からポランスキー刑務所に移送されたのは、2011年6月のことだった。タラント郡刑務所に収容されていた頃は、4つの雑居房が横に並び、向かいにも五つの雑居房があったという。近くにはデイルーム(休憩室)があり、奥にはテレビも設置されていて、一日中好きな番組を見て過ごすことができた。しかし、このポランスキー刑務所にテレビはない。
私はひとまず、事件の話題は少し後に回すことにした。
「ポランスキーの環境は、前の刑務所と違いますか」
「ラジオが与えられていて、音楽を聴いたり、トークショーを聞いたりすることができます。ラジオや新聞は、家族が申し込みをしてくれれば与えられます。基本的に私の情報源は、ラジオと受刑者たちとの会話だけです」
ハメルの英語は、とても聞き取りやすく、テキサス訛りは感じなかった。
「独房の中は寒くないですか」
「昨日はとても暑くて湿気がありました。なんだかベタベタしていました。でも急に寒くなったりもするんです。冬が近づくと、ヒーターがないので、とても寒いです」
「毛布はもらえないのですか」
「ブランケット1枚とシーツが2枚です。よく寒くなります」
ニンテンドーが好きだった幼少期
ハメルの体格は、事件当時の10年前よりも、がっしりとしている。刑務所生活をするようになって、むしろ体重が大幅に増えたのではないかと思う。顔つきも、殺人事件を犯した直後と現在とでは、天と地の差があるように見えた。
子供の頃に、ファミコンが大好きだったということは資料で知っていたが、その話を直接、訊きたかった。私も小学5、6年生の頃まで、毎日、ファミコンで遊び呆けたものだ。同い年ということもあり、共通する話題はある。重い話をする前に、少し明るい話題を続けたい。
「昔、ニンテンドー(日本でいうファミコン)が好きだったようですね」
私がそう言うと、ハメルが微笑みながら答えた。
「アメリカに初めてニンテンドーが上陸した時、ふたつのリモコンで小さな光線銃を使ってジャイロマイトと戦うロボット(日本では『ジャイロセット』)とか、そういうものをすべて持っていました。ゼルダ(同『ゼルダの伝説』)なんかは大好きでしたね。毎日、何時間もやっていました。父親ともよく一緒に遊びました」
ハメルは、過去を懐かしむように話していた。当時は、世界のいたるところで、子供たちが同じような遊びに没頭していたのだ。幼少期から友達だったマーク・パックは、ハメルについて証人尋問で次のように語っていた。
〈引っ込み思案で、1人でゲームを楽しむ孤立した人だった。学ぶスピードは遅かった。人に暴力を振るわなかった。困惑すると顔が真っ赤になった。母親は彼に対して過保護で、学校の送り迎えや、彼に食料のデリバリーをしていた〉
「天国に行くことができれば両親に会える」
ハメルは、「父親ともよく遊んだ」と言ったが、裁判資料を読んでみると、両親は子供たちを家に放置することが多く、父親は時々、息子に暴力を振るうことがあったと書かれている。そんな両親について、ハメルは、感情があるのかないのか、よく分からない表情で話した。
「父親は、2005年に亡くなりました。3回目の心筋梗塞で、入院して治療を受けている間に肺炎になってしまって。その疾患が重なって死んでしまいました。母親は、2017年に亡くなったばかりです。脳動脈瘤で手術をする予定だったのですが、それを待たずに亡くなりました」
できれば、2人に会って取材をしたいと思っていたが、もう叶わないようだ。資料からは、あまり順風満帆な家族生活を送ったようには思えなかったが、ハメルは、突然、こんな期待を口にした。
「でも、もうすぐ会えると思います。天国に行くことができれば、ですけれどね」