「人」にフォーカスする

さまざまなタイプの人と会うことで自身の直感を磨いていたという行動に表れている通り、前田は「生身の人間にフォーカスする」ことを何よりも重視していた。

先ほど触れた「ビアホール・ハートランド」も、ビールをブランディングするための武器であると同時に、前田にとっては生身のユーザーを知るための場でもあった。店長として店に立ちながら、前田はどんな人たちがどんな表情でビールを飲んでいるかを肌で理解していった。

近年、マーケティングという考え方における定量的な側面が強調されつつある。あらゆるものがデータ化できる時代において、「数字で分析できないものは価値がない」といったスタンスを表明する人も多い。

こういった発想は、ある側面においては正しい一方で、個別具体的な情報をカットすることで生々しい現場のありようをわかりづらくしてしまうという問題もある。ビールを飲む人一人ひとりの実感を大事にした前田は、数字だけに頼る弊害を感覚的に理解していたのではないか。

そして、そういった思考プロセスや現場の出来事を観察することで洞察を得る手法が「エスノグラフィー」「デザイン思考」「N1分析」などの形で体系化されてきているのもまた現代のマーケティングのトレンドである。前述したPR手法のみならず、顧客分析のアプローチにおいても前田は時代の先を行っていたとも言える。

消費者理解の核心は「ズレ」

もっとも、前田は最初から百発百中のヒットメーカーだったわけではない。キャリアの初期に前田が開発したいくつかの清涼飲料は不発だったという。こういった失敗も重ねながら、前田は商品開発におけるある種の真理にたどり着く。キーワードは「ズレ」である。

「一般の消費者は『ビールのプロ』ではない。それゆえ、消費者の感覚は、往々にして『ビールのプロ』の意見とはズレる。

こうした『ズレ』を捉えることこそ、消費者理解の核心であり、ヒットを生むコツだと、前田は考えていた。

そうした前田の狙いが最高度に発揮されていたのが、『淡麗』というネーミングだった。

『発泡酒は本来使うべき麦芽をケチった、安いビールだ』

キリン社内の人間も、発泡酒のことをこう考えていた。一方、前田は、『消費者は「安物」を求めていない』ことを見抜いていた。

(中略)

『ビールにあまりお金をかけたくないが、できるだけ本格派のビールが飲みたい』

その微妙なニュアンスを、前田の鋭敏な感性は見事に洞察していた。

その結果、前田はあえて、カジュアルさを排した漢字2文字の商品名を採用したのである」

永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)

(本書より)

商品を購入する人の繊細な心境は、実はいわゆるマーケティング調査には表れないケースも多い。回答者は常に質問側の意図を読み取ろうとする(つまり質問側の欲しい答えを勝手に先回りして「正解」を答える)だけでなく、匿名のアンケートであっても人には言えない好みを正直に回答してくれるケースはまれである。

調査結果に従って作った商品が実際の市場では鳴かず飛ばず、といった状況はマーケティングを巡るこういったあやから生じる。

数字の裏側には必ず人がいる。ともすれば忘れがちなこの原理を前田は大事にしていた。だからこそ前田の商品開発では、人と会い、人の心を洞察し、人の本音に迫ることが重視された。そしてそういった哲学は、部下を守るためには自身の懲戒も恐れないという組織マネジメントの姿勢にも貫かれていたと言える。

レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社)

前田の死去からまもなく3年、ビール業界における激しいシェア争いは今も続いている。直近の発表によると、2022年のビール系飲料全体のシェアはアサヒが36.5%で35.7%のキリンを上回ったという。

今年もたくさんの商品が発売され、その裏側でたくさんのドラマが人知れず生まれているだろう。そんなことに思いをはせることで、日々何気なく飲んでいるアルコールの味わいも変わってくるのではないか。

時に爽快で時に苦みのあるビールの味は、その商品を苦しみながらも生み出したメーカーのストーリーそのものなのかもしれない。本書を読んで、そんなことを思った。

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