ビールだけでなく空間をセットで売った
先ほどいくつか前田の関わったブランドの名前を挙げたが、前田がそれらよりも前に手掛けたのが「ハートランド」というビールである。今でも緑色のファッショナブルなビンを小売店や飲食店で目にすることができるが、この商品にこそ前田のヒットを生むメソッドが詰まっているとも言える。
ハートランドのポイントは、商品だけでなく「ビアホール・ハートランド」という空間も含めてのプロデュースワークだったことである。前田はこの「ビアホール・ハートランド」の店長も務め、日中オフィスで働いた後、夕方にはユニフォームに着替えて閉店まで店に立つ形で勤務にあたった。
「ビアホール・ハートランド」は単なるビアホールではなく、「時代を先取りする、最先端の文化拠点」(本書より)だった。そこでは音楽や舞踏、演劇などのライブイベントや現代アートなどの展示が開催されていたという。前田はビールを売るだけでなく、セットで空間を売った。そして、そこに漂う文化の香りまで含めて商品の魅力に取り込んだ。
前田はハートランドをPRするにあたって、以下の6つのポイントを定めたという。
①一つの商品にたくさんの情報価値=語りたくなる、伝えたくなる価値を盛り込む
②発信しようとする情報を受け手の身になって考える、整理する
③時代を読む
④関与者を多く作る
⑤即効性のあるメディアほど情報感度は鈍い。雑誌→新聞→ラジオ・テレビの順番を意識する
⑥追い駆けるより追い駆けさせる構造を作る
2020年代のソーシャルメディアを活用したマーケティングの原則だと言われても信じてしまいそうな考え方に、前田は1980年代の時点でたどり着いていた。
寄り道にこそ“イノベーションの種”が潜んでいる
時代の先を読む洞察力、およびビールという必ずしも単価の高くない商品を空間と組み合わせることで文字通りの「ブランド」に昇華させる手法。こういった前田の技の背景について考えるうえで、キリン社員の興味深い証言がある。
「前田さんは幅広い知識を持っていて、普段の会話にも『リベラルアーツ』の香りが漂っていました。マーケティングについても、前田さんは一貫した哲学を持っていました。
前田さんの考えでは、マーケティングとは『ビジネスそのもの』であり、ヒット商品を作るための単なるノウハウではありませんでした。
どのようなものをお客様は望んでいるのか、それをどのような形で、どのような方法で売ればいいか。前田さんにとってのマーケティングとは、そうしたことを総合的に考える作業でした」
(本書より)
「リベラルアーツ」「総合的」。自分がいる業界に関する知識だけを追い求めていても、未来の社会について考えることはできない。ビールの開発に直接役に立つことだけを勉強していても、それはもしかしたら効率の良いやり方かもしれないが、思いもよらぬ発見とは出合えない。前田はそんなことに気づいていたのかもしれない。
では、前田はどうやってリベラルアーツを磨き、総合的な視点を養っていたのか。前田が注力していたのは、いろいろなタイプの人と会うことである。
「『自分の思考を真っさらにする』ため、前田は幅広くさまざまな人々と交流していた。田中泯のようなアーティストのほか、広告代理店、広告クリエーター、建築デザイナー、リサーチ会社の関係者など、実務家の人脈も広い」
「前田の行く先は、著名な建築デザイナーや有名広告クリエイター、リサーチ会社の幹部などの事務所が多かった。時には画家や演劇関係者など文化人のもとを訪ねることもあった。前田はそこでただ雑談を交わしていたという。話題はとりとめのないものばかりで、肝心のビールの話も、相手から求められない限りはしなかったという」
(本書より)
何かの答えを得るためでなく、むしろ短絡的な答えから距離をとるため、自分の思考を常にニュートラルに保つために、前田はたくさんの才能との交流を通じて多様な情報や文脈に身をさらした。そこでの蓄積は、商品のアイデアを生むだけでなく、その商品のまとう空気にも大きな影響を与えたはずである。前田の立ち居振る舞いは、ある種の寄り道にこそイノベーションのタネが潜んでいることを我々に教えてくれる。