必殺の手土産

運輸省を訪ねるときも怖々だった。東大出の役人たちに議論で勝てる気はしない。秋元は運輸省の廊下を歩くとき、口の中で軍艦マーチを口ずさみ、自分を勇気づけた。

霞ヶ関や永田町に通うときの手土産も忘れなかった。自分と同じ姓の秋元一族が営む天晴味醂が作る「矢切の渡し」という名前の焼酎だ。包み紙には「秋元」と大きく書いてある。名前を覚えてもらうには持ってこいだ。

「いつもお仕事、ご苦労様です。お疲れでしょうから、たまにはこれで船酔いしてくださいな」

そんなことを繰り返すうち、はじめはけんもほろろだった役人たちが「お、流山がまたきたな」と言いはじめ、木更津出身の課長らが「秋元、頑張れよ」と応援してくれるようになった。

大臣に認められた「人たらし」

運輸官僚の間で有名人になった秋元は時の運輸大臣、山下徳夫に引き合わされた。秋元は運輸省に陳情に行くたびに大臣室に呼び出された。どうやら山下に気に入られたらしい。いつも手土産に「矢切の渡し」を持ってくる秋元に山下は言った。

「流山ってのはずいぶん広いんだな。トウモロコシを育てるには北海道みたいに広い土地がいるんだろ」
「いやいや大臣、流石にトウモロコシは他から買っています。でも焼酎を作るくらいの土地ならいくらでもあります」

この頃、首相の中曽根は政権浮揚を狙って頻繁に内閣を改造したため、山下は1年余りで運輸大臣を去ることになる。運輸省を去る日、山下はたまたま居合わせた秋元を連れて省内を回った。

「世話になったな。ありがとう。ところでこれが流山の市長だ。新線の誘致で一番頑張ってる市長だから、俺がいなくなった後もよろしく頼む」

この時代の政治家は義理堅いところがあったわけだが、大臣にここまで言わせた秋元の「人たらし」ぶりも大したものだ。