千葉県流山市は、全国の市の中で6年連続人口増加率1位となっている。その理由のひとつに、市内中心部を走るつくばエクスプレスの存在がある。新線誘致に尽力した当時の市長に、ジャーナリストの大西康之さんが取材した――。(第2回)

※本稿は、大西康之『流山がすごい』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

つくばエクスプレスTX-3000系車両
つくばエクスプレスTX-3000系車両(写真=Nyohoho/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

御年95の「流山の恩人」だけが知ること

ベビーカーを押すお母さん、地元の高校生、初老の夫婦。さまざまな人が行き交う流山おおたかの森駅。つくばエクスプレスと東武アーバンパークラインが交差する線路沿いにひっそりと立つ御影石の顕彰碑の前で足を止める人はいない。碑にはこう刻まれている。

「昭和60年7月11日、当時の運輸省運輸政策審議会答申において、常磐新線(現つくばエクスプレス)が流山市内を通過することが決定しました。本記念碑は、21世紀の流山市の大躍進をめざし東奔西走されその礎を築かれ市民宿願の東京都心への直結鉄道であります常磐新線を流山市内に立地誘導することに成功しました。流山市にとりまして、大功労者であります第3代流山市長秋元大吉郎氏の御功績を後世にわたり称え顕彰するものです。」

1983年から2期市長を務めた秋元大吉郎。1927年生まれ、御年95歳の古老を訪ね流山市北部の自宅に向かった。

秋元邸の応接間に入ると、「流山の恩人」は正面の定位置に座っていた。「つくばエクスプレス開設当時の話を聞きたい」と伝えると、95歳の古老はしばしメガネの奥の目を閉じ、やがて静かに語り出した。

田中角栄との会話の内容

「とにかく、あのオーラはすごかったよ。こちらの体にね、ピシピシと伝わってくるんだ」

1985年2月14日、秋元は目白御殿の待合室にいた。やがて呼び出されて応接室に入る。秋元が名乗ると角栄が言った。

「で、その流山市長が何の用だ」

日本列島改造や日中国交回復などを成し遂げ「今太閤」の異名をとった角栄だが、総理の在任期間は2年半(886日)と短い。金権政治批判で総辞職し直後にロッキード事件が発覚。だが、その後も裁判を戦いながら隠然たる権力を持ち「闇将軍」と恐れられた。

秋元が角栄邸を訪ねたのは、子飼いの竹下登らが「創政会」を立ち上げ闇将軍の権力に陰りが見えた1週間後のことだ。

秋元は持参した流山の地図を広げ、当時、地元の請願を受けて運輸省などが検討していた「常磐新線」の必要性と、流山市を通るルートの有用性を懸命に説明した。角栄は秋元にポンッとボールペンを渡した。

「あんたが希望するルートってのを、そこに書いてみろ」

秋元は秋葉原から三郷を抜け、流山市を南北に貫いてつくばに至るルートを書いた。秋元が書いた線を睨みながら角栄が呟いた。

「しかし鉄道はなぁ。今は自動車の時代。鉄道は儲からんのだよ」