勝利と同じくらい「人間的成長」が大事

群馬県でもLiga Agresivaは行われている。群馬県立渋川工業高校の小泉健太監督は、群馬県立前橋高校、東京学芸大学を通じて野球をした。当時の東京学芸大は東京新大学リーグの1部に所属し、国立大としては屈指の強豪だった。

卒業後は定時制高校の教員を経て、渋川工業に赴任し、野球部監督になった。

「指導者になって初めて高校生に接したときに、自分の高校時代とは違った印象を受けたんですね。少しも楽しそうじゃないし、心ここにあらずで、その場しのぎで野球をやっている印象だったんです。

野球ってこんなにつまらないスポーツだったっけ? とショックを受けた。でも、もしかしたらこれが今の日本野球のスタンダードになのかもしれない、と思って危機感を抱くようになりました。

その後、Ligaについて知って、同じ渋川市内の群馬県立渋川青翠高校の清水哲也監督とまずは2校で対抗戦をはじめ、それを発展させてリーグ戦にしました」

Liga群馬では今年は8校でのリーグ戦が行われた。

「うちは『ダブルゴールリーグ』っていう独自の目標を掲げています。ダブルゴールのひとつは野球の試合で勝利するとか、上達するとか、野球選手が目指すゴールです。

もうひとつは失敗から立ち上がるとか、ミスしても切り替えて前向きに取り組むとか、将来の幸せにつながる人間的な成長をゴールととらえています。指導者にも失敗しても怒鳴らない、前向きの声をかけようと言っています、指導者同士も交流し合い問題意識を共有しています」

提供=渋川工業高校・小泉監督
Liga群馬で行われたスポーツマンシップの学び

新聞の部数を拡大した「甲子園」

野球=Baseballと言う競技は、18世紀にアメリカ東海岸で誕生し、19世紀にはプロチームが誕生した。初期のプロは各地を転戦したが、次第に同じ相手と何度も戦って優劣を決するリーグ戦が成立するようになる。一説にはプロスポーツのリーグ戦は、野球が発祥だとも言われるが、野球というスポーツは「リーグ戦」で発展したのだ。

日本には、1872年にホーレス・ウィルソンがもたらしたとされるが、日本でも当初は大学間のリーグ戦で広がっていった。しかし1915年に大阪朝日新聞が、今の「夏の甲子園」の前身である全国中等学校優勝野球大会を創設してから、独自の道を歩むようになる。

若者が、一戦必勝のトーナメントにまなじりを決して挑む姿が、ファンの注目を集め、野球人気は全国に広がった。主催する朝日新聞は、熱戦の様子を大々的に伝え、新聞部数を拡大させた。

1925年、ライバルの毎日新聞社も選抜中等学校野球大会を創設。「春の甲子園」も始まった。

春夏の甲子園は、大きな注目を集め、全国の中等学校、商業学校などに野球部ができ、競技人口は一気に増えたのだ。

甲子園は幾多の有名選手を輩出し、プロ野球と共に、野球を日本の「ナショナルパスタイム」にするうえで、大きな貢献をした。