鎌倉武士のしたたかな恩賞交渉術

竹崎季長はあくまで一戦闘員であり、自分が参加した戦闘については詳しく語れるが、全体の戦局を十分に把握できているわけではない。そうした史料的限界はあるものの、『八幡愚童訓』ではなく『蒙古襲来絵詞』を主軸に据えて蒙古襲来を復元するのが正道である。

歴史学者の服部英雄氏は上の観点から、蒙古襲来研究の見直しを図った(『蒙古襲来』山川出版社、2014年)。拙著『戦争の日本中世史』(新潮選書、2014年)は服部説を発展させる形で、文永の役におけるモンゴル軍撤退の理由は「神風」や「自主的撤退」ではなく、鎌倉武士の勇戦であると説いた。

このように『蒙古襲来絵詞』は、蒙古襲来研究に不可欠な史料だが、それだけに留まるものではない。竹崎季長が恩賞獲得のために鎌倉に赴き、御恩奉行の安達泰盛に直談判する一幕も興味深い。

絵巻では、泰盛との対面は合戦場面に劣らず力を入れて描かれており、季長にとっても思い入れの深い出来事だったと考えられる。本稿では、季長と泰盛との交渉を通して、鎌倉武士のメンタリティーの一端に迫りたい。

竹崎季長、鎌倉へ行く

文永の役が起こった文永11年(1274)当時、竹崎季長は所領を持たない貧乏武士であった。歴史学者の石井進の研究によれば、竹崎季長の父親の遺産をめぐって一門の間で訴訟が起こり、季長は敗訴して父の遺領を相続できなかったのだという(『鎌倉びとの声を聞く』日本放送出版協会、2000年)。季長にとってモンゴルとの合戦は、恩賞を得て一発逆転する千載一遇の好機であった。

首尾よく先駆け(敵陣一番乗り)の戦功を挙げた竹崎季長であったが、待てど暮らせど恩賞の沙汰がない。ついに季長は鎌倉まで訴え出ようと決意するが、一門の反対にあう。

一門の反対を押し切って翌建治元年6月3日、竹崎季長は竹崎を出発する。いざ出発となれば旅費を支援してくれるだろうという甘い期待が季長にはあったが、誰一人見送りにすら来ないというありさま。やむなく季長は馬と鞍を売って旅費を作った。中間ちゅうげんの弥二郎・又二郎の2人だけを供に従えての門出であった。

もし恩賞が獲得できなければ、出家して武士の道をあきらめ、2度と故郷には戻らないと季長は決意する。まさに背水の陣である。

季長一行は関門海峡を渡って、長門国の赤間関あかまがせき(現在の山口県下関市)にたどり着く。ここで長門国守護代の三井季成すえなりが遊女を集めて盛大な宴を催してくれた。実は季成は季長の烏帽子親えぼしおやだったのである。季成は季長の馬や旅費も援助してくれた。