御恩奉行である安達泰盛に直訴

馬を得た季長は順調に旅を進め、8月10日には伊豆の三島大明神(現在の三嶋大社)、翌11日には相模の箱根権現(現在の箱根神社)を参拝した。両社にお布施を納め、恩賞獲得の祈りを一心に捧げた。翌12日にはついに鎌倉に到着し、鶴岡八幡宮に参拝して、やはりお布施を納めて祈りを捧げている。

さっそく季長は幕府の奉行たちに働きかけるが、みすぼらしい風体が災いして、相手にしてもらえない。ならば神頼みしかないと、再び鶴岡八幡宮に参拝したところ、とうとう幕府の御恩奉行である安達泰盛に直訴する機会を得たという。実際には八幡神のおかげというより、三井季成のコネがモノを言ったのだろう。

安達邸に赴き、泰盛本人と面会した季長は、「一番につき候し事」、すなわち敵陣一番乗りの功績が報告書に載らなかったことを訴えた。先駆けの功が「君の見参」、将軍惟康これやすの知るところとならなかったのは、武士として面目を失う事態だというのだ。

『蒙古襲来絵詞』前巻、絵九。竹崎季長が、安達邸で御恩奉行の安達泰盛に「先駆けの功」を訴える場面。
『蒙古襲来絵詞』前巻、絵九。竹崎季長が、安達邸で御恩奉行の安達泰盛に「先駆けの功」を訴える場面。(図版=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただし季長の上の主張は半分タテマエである。武士としての名誉より恩賞の方が、季長にとっては重要であった。

季長の訴えを聞いた安達泰盛は、季長が持参した「書下かきくだし(戦功証明書)」を確認した。そして泰盛は「敵の首の分捕りや家人の討死などの戦功はあるか」と尋ねた。季長は「ございません」と答えた。

泰盛は「では合戦の功績としては十分とは言えぬ。手傷を負ったことは書下にも記されている。この上、何が不足なのか」と反論する。負傷したというだけでは、恩賞をもらうほどの奮戦をしたことにはならないのだ。

恩賞目当てではなく、武士の名誉にしたい

季長は「先駆けの戦功が将軍にご報告されていないことを申し上げているのです。もしそれがしの申すことに御不審がおありでしたら、(季長らを指揮する大将だった)少弐景資しょうにかげすけ殿にお尋ね下さい」と食い下がる。さらに季長はダメ押しの一言を放つ。「もし景資殿が『季長の主張は偽りである』という起請文きしょうもん(神かけて誓う文書)を提出なさったら、それがしの勲功を全て抹消して、それがしの首をお取り下さい」と。

必死の季長にたじろぎながらも泰盛は「景資に重ねて問い合わせるなど無理なことだ」と答える。季長は「無理を承知で申しております」と言う。泰盛は「これはおかしなことを申す。無理と分かっていて、そのようなことを申すでない」とたしなめる。