SNSは器官のひとつ、社会的身体機能でもある
【宇野】これってどういうことかというと、SNSのプラットフォーム上の社会的な身体は、この三幻想を追求する3つの器官しか持たないってことなんです。言い換えれば、それは承認の交換しかできない身体です。例えば僕と乙武洋匡さんの身体はかなり違うけれど、FacebookやTwitterのアカウントの機能は同じです。要するに、SNSは承認の交換しかできないゾンビみたいな社会的な身体に世界人類を画一化しているわけです。
SNSは人間を承認の交換の器官だけにすることで、吉本隆明の言う〈関係の絶対性〉に完全に閉じ込めてしまう。人間は承認を交換してナルシシズムを確認するためだけの生物になってしまう。SNSは器官の問題、社会的身体機能の問題として捉えることができるんですね。
【吉田】ナルシストたちは、SNSだけがあればいいんだ。
【宇野】ナルシストのSNSは分かりやすいじゃないですか。写真の選び方、プロフィールの書き方、投稿の内容はだいたい同じだし、「こういうコメントをつけるとすごくよろこぶ」って分かるでしょ。
承認欲求の中毒になると、人間は不幸になる
【宇野】ナルシシズムはそれ自体が悪ではなくて、人間が生きていくうえで自己確認は必要なものです。極悪なものとして糾弾する必要はないと思うのだけれど、情報技術に支援されて承認の交換があまりにも簡単にできるようになり、その快楽の中毒になることが、人間を幸福にするとは思えないということですね。
【宇野】たまに皇居周辺を走ると、ガチ勢の村上春樹っぽいおじさんたちがたくさんいて、やっぱり僕とは違うなあ、と思うんですよね。もちろん、いろんな走り方があっていいのだけど、僕はもうちょっと走ること自体を楽しみたい。
ロレンスがハマったのはオートバイを駆る身体拡張の快楽で、村上春樹のそれは男性的な自己確認のためのランニングだと思います。ただ、僕が好きなのは、単に走る快楽そのものの追求で、もっといえば走ることでその土地を味わっている。この3段階は、『砂漠と異人たち』の構成を考えているときに意識しました。要は、1人で物事に向き合うってことなんです。
だから「遅いインターネット」という選択肢を提示したい
【吉田】それができない人たちがいっぱいいるから、丁寧にガイドしてあげてもよかったようにも思いますね。
【宇野】それは教えられても意味はないですよ。自分なりの距離感と進入角度を見つけるのが大事だって話なんですから。もし、これ以上踏みこむならそれは主体論ではなく、環境論でやりたいですね。いま『群像』(講談社)で連載している「庭の話」は、ではどうすれば僕たちが「遅く」走ることのできる環境、つまり「庭」ができるのか、ということを考えています。これは完全に『遅いインターネット』(NewsPicks Book)の続編で、今度はサイバースペースだけではなく、実空間、とりわけコモンズの話をしています。
「遅く走る」ような主体を僕はこの本で提唱しているわけですが、「遅いインターネット」とその延長にある「庭」という環境のモデルも一緒に提示することが僕の役割だと思っています。