「語り口」が「意味」よりも力をもつ罠

【宇野】タモリは語り口ですべてを表現する達人なのだと思うけれど、僕があの番組を肯定できないのは、メンバーシップの確認になっていたからです。要するにあれって、「昼休みに芸能人の雑談を毎日見ていると、自分も芸能ムラの友達の輪の中にいる」と錯覚できる楽しさをタモリの語り口で実現していたのだと思うんですね。

ただ、僕はああいうものの傲慢さとか、内輪受けのサムさを感じる人が増え始めた世代の走りで、タモリの技術は優れているなと今でも思うけれど、ああいう80年代、90年代的な「テレビっぽいノリ」はちょっとサムすぎて見られないわけです。

「語り口」のほうが「意味」よりも力をもつこの罠は確実にある。だからこそ、僕は「意味」を活かすための「語り口」の多様性をしっかり担保したいと思うんです。

外部を求めたロレンス、内部で自己確認する村上春樹

【吉田】砂漠と異人たち』の第3部では、村上春樹にスポットを当てています。80年代から2000年代にかけて、最強の発言権を持った人間の一人が村上春樹だと思うんですね。“反論できなさそうな人ナンバーワン”みたいな感じでした。ロレンス問題は、その村上春樹にもつながるわけですね。

【宇野】要するに、ロレンスが〈外部〉幻想の代表なら、村上春樹は〈外部〉の断念の代表です。ロレンスは〈外部〉に接続して歴史の当事者になろうとして、実際になってしまった。しかしそのことで逆に自分を縛り付けてしまった。

村上春樹はロレンスとは違うかたちで歴史にアプローチする。いわゆる「壁抜け」ですね。歴史を物語としてではなくデータベースとして自由にアクセスする。それが日本軍だろうが、中国軍だろうが、ソビエト軍だろうが人倫に反することを行う存在は「悪」であると。これは要するにイデオロギーに依存しない歴史への、それも倫理的なアクセス方法です。

しかし、たいていこういうふうに文脈を切り離して、切り抜き動画みたいに歴史にアクセスすると、人間は弱いから都合のいいところだけつまんで見てしまう。これが陰謀論の温床になる。オウム真理教なんか、まさにそうだった。だから村上春樹は「強い」主体になろうとするのだけど、それがよりにもよって、女性搾取的な回路を用いた男性的なナルシシズムの確認による自己の強化だったわけです。

【宇野】村上作品にはある種の霊感を備えた女性が登場し、主人公の男性を無条件に肯定して、時にその身体を差し出すなどして異界に触れる力を付与する。言ってみれば、いま情報産業が提供しているサービスによって、ユーザーが得ている全能感に近いものを性的な回路で与えている。