何も特別なことをしなくても「今週のスター」賞をもらえる

このような考え方はフロイトに源流がある。フロイトは幼少期の経験が長い間忘れられ、意識されていなかったとしても、心理的ダメージを与え続けることがあると主張して、精神分析に対して画期的な貢献をした。不幸なのは、この「幼少期のトラウマが大人の精神病理学に影響しているかもしれない」というフロイトの洞察が、「困難な経験は全て、心理療法で使われている長椅子に座るための準備になる」という確信へと、いつの間にか変換されてしまったことだ。

精神的に有害な経験から、子供たちを隔離しようという大人の努力は家の中でなされているだけでなく、学校の中でも広まっている。小学生くらいになると、どんな子も「今週のスター」賞などをもらっている──特別なことを達成したわけではなく、ただの名前順で。そしてどの子も、いじめがないかどうか目を配るように教えられる。積極的に立ち上がる人になるようにというより、傍観者にならないように。大学生くらいになってようやく、教員と学生が嫌な出来事があったきっかけや安全な空間はどこにあるかなどについて話し始める。

写真=iStock.com/sankai
※写真はイメージです

子育てや教育が発達心理学や共感能力を重視してなされていることは良い進化であると言えよう。確かに私たちは、その人が何を達成したかに関係なく、全ての人を認めるべきだ。そして、校庭やその他ありとあらゆる場所での身体的、感情的いじめを止めるべきだ。また考え、学び、議論する、安全な場所を作るべきである。

過保護は逆に子供たちをひどく怖がらせていないか

しかし子供時代を過度に衛生的にしてしまうこと、過度に病理化してしまうことが私は心配だ。これではたとえ傷つかないようにするためであっても、壁に緩衝材を貼った独房で、すなわち外の世界に出る準備には全くならない状態で、子供を育てているのと同じだと思うのだ。

嫌なことから守ることによって、逆に私たちは子供たちをひどく怖がらせることになってはいないだろうか? 実世界に何の変化ももたらさない偽りの称賛で、彼ら/彼女らの自尊心を高めることによって、私たちは子供たちの忍耐力を下げ、自分の権利を主張し、それでいて自分の性格的欠点については自覚しないような人にしてきてしまったのではないか? 彼ら/彼女らの欲求に全て応えてしまうことによって、私たちが快楽主義のニューエイジを作ってきてしまったのではないか?

ケビンは一度、カウンセリングのセッション中に人生哲学を披露してくれた。私はそれを聞いて正直なところゾッとしてしまった。

「僕はしたいことは何でも、したい時にします。もしもベッドにいたいならベッドにいます。ゲームをしたいと思ったらします。覚醒剤をちょっと吸いたいと思ったら、ディーラーにメッセージを送れば約束の場所に置いてくれる。セックスしたいと思ったらネットで誰か探して、その人に会ってします」

「それは、あなたをどう癒してくれるんでしょう?」と聞いてみた。

「まあ、そんなに良いことではないのかな」。一瞬、彼は恥ずかしそうに見えた。

過去30年間で、ケビンのような患者に会うことは増えていった。人生において全てのアドバンテージを持っているように見える人たち──支えてくれる家族がおり、質の高い教育を受けられ、経済的にも安定していて、健康な体を持っている──そんな人たちが不安やうつや体の痛みを訴え、弱った様子でやって来る。自分の持っている力を活かせなくなっているというだけでなく、朝ベッドから起き上がるのもやっとになっているのである。