帰国してからは、例えば若い医師たちには臨床、研究、教育をまんべんなく学ばせたうえで、どこに重点を置くのかは自分で選べるよう気を配りました。研究でも、日本の大学の多くがそうであるように、教授がテーマを与えるのではなく、学生が自分でテーマを考えられるように指導しました。アメリカで開催される学会に出席させて同様の研究をしているライバルを会場で紹介し、競争意識を高めるということもしました。

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帰国から6年後には、古巣である東京大学第一内科の教授に推挙されたことも後押しとなり、私はいつも「世界の中の日本」という枠組みで自分の責務を捉え、行動し、日本社会や日本の大学の未来の教育システムの在りようについて、大学の内外でよりいっそう発言をするようになりました。

優秀な研修医は大学をやめ、実行犯になった

東京大学第一内科で教鞭をとっていた時代には、教育者として大きな挫折も経験しています。1995年にオウム真理教が起こした事件の実行犯の中に、私の教え子がいたのです。

東京大学を卒業した研修医で、とても優秀な学生だったのですが、内科の臨床研修の1年目の途中で「どうしてもやりたいことがあるので、辞めたい」と私に伝えに来ました。何をするのかを聞いても、「今は言えません」と口をつぐんで決して話そうとはしません。

私は、「それが自分の本当にやりたいことならいいけれども、もし1年たって気が変わったら連絡してきなさい。研修を再開できるようにしてあげるから」と言うしかありませんでした。彼の普段の言動や性格などから、演劇や音楽でもやるのだろうか、といった程度のことしか頭に浮かびませんでした。

彼がいなくなって1年半後、オウム真理教が東京都庁に小包爆弾を送り、これを開封した職員が左手のすべての指と右手の親指を失うという事件が起きました。後で知って愕然としたのですが、その真面目で優秀だった研修医が事件の実行犯の一人だったのです。

彼には懲役18年の刑が下されました。私はご両親とときどき話をし、刑務所の彼に本を送り、控訴審では弁護士に頼まれて証言台にも立ちました。最終的に、刑は15年に減刑されたと聞いています。

自分の頭で考えられない「日本の偏差値エリート」のもろさ

証言台に立って彼の眼を見たときの、あのゾッとした感覚を忘れることができません。そこには自我がまったく存在しないように思えました。「人はこんなにも変わってしまうものなのか」と、オウム真理教の狂気とそれに呑まれたエリートの変わりようを恐ろしく感じました。

医学部生という人の命を救うことを生業にしようとしていた優秀な若者が、なぜ人の命を奪おうとする凶悪な犯罪を引き起こしてしまったのか。ここにも日本の教育が影響していたように思います。

偏差値を重視した全国一斉の筆記試験、つまり日本の大学入試に合格するための勉強をするばかりで、物事の善し悪しを自分で考えてこなかったからでしょう。そして、入試に合格した後も、日本に真の大学教育がなかったことから、自分の頭で考えるということが身につかなかった。