アメリカで血の滲むような努力を続けて教授の地位を得ても、日本の組織には貢献していないのですから、帰国後は東京大学の医局でどう扱われるのだろうかなどと真剣に考えたりしました。日本に戻れば、また入局の年次から始めることになります。アメリカでのキャリアを積めば積むほど、日本には帰りにくくなっていきました。

それなのに、私はアメリカで教授になって4年が過ぎた1983年の暮れ、突然、東京大学の恩師の尾形悦郎先生との思わぬご縁と説得で帰国し、東京大学医学部第四内科の助教授(准教授。当時は教授―助教授―講師という制度だった)になりました。といっても、大変な恩のある先生の説得を無下に断るわけにもいかなかったからで、1年ほどでアメリカに戻るつもりでUCLAのポジションもキープしてありました。

優秀な学生がいつの間にか腐ってしまう

しかし、14年ぶりに自分の母校である東京大学やその学生に相対したときに、「とても優秀なのに、その将来を考えると、このままではまずい。今のままでは日本には真のエリートが育たないだろう」という強い危機感を抱き、考えが変わってきたのです。

写真=iStock.com/wnmkm
※写真はイメージです

入学した頃はアメリカの学生にも負けないほど優秀で意欲もあるのに、しばらくたつと、みんないつの間にか「腐って」しまう。すなわち、年功序列的な考えにしばられ、ヨコに動けなくなり、能力を発揮できなくなるのです。

東京大学医学部の学生は、日本社会ではトップエリートとみなされています。たしかに、彼らはよく勉強ができます。知識もあります。しかし、私が見る限り「世界の中の日本」という枠組みの中で自分が何をやりたいかということに気づいていない人が多いのです。

激しく変化し続ける世界の中で、自分は何をしたいのか、世界から見える日本を感じ取る感性を持ち、世界の中での出来事を自分のこととして考えられる、自分の道を追求できる、そんな「独立した精神」を持った学生がとても少ない。

大学に入った頃は学力においてはアメリカの学生とそれほど変わらないのですから、日本の高等教育のやり方や社会の制度等々において、アメリカとの間に大きな差があることは明らかでした。

私は「独立した個人」としてアメリカに長く出ていたことで、客観的な視点を持ち、日本を相対的に見ることができるようになっていました。日本の強みと弱みがよく認識できるようになり、それに伴い私の中には「健全な愛国心」というものが生まれていたようです。そして、やはり自分の生まれ育った国ですから、日本に腰を据えて若者の教育に携わろうと決意したのです。

教育者として大きな挫折

私は、若い人たちに自分のやりたいことに早く気づかせ、個として独立させることが教育者の仕事だと考えています。特に「大学教育の目的は何か」ということを大事にしたいと思っています。これは、留学先のペンシルベニア大学で私に三つの教えを授けてくれた恩師から学んだことです。