幕府転覆の最大の危機
そして5月2日午後4時ごろ、いよいよ義盛は義時を討つべく150騎で挙兵した。まず実朝の御所と義時邸を包囲している。取り囲まれた実朝の御所は、義盛の三男の義秀が門を破り、その後、火を放たれてすべての建物が焼失したという。義時邸でも家臣たちに多くの死傷者が出た。
しかも、比企の乱などの局所的な争いとは異なり、この和田合戦では鎌倉の市街が広く戦場となった。しかも2日にわたって戦われ、鎌倉が甚大な被害に見舞われただけでなく、幕府が転覆するかどうかの紙一重だった。それを引き起こしたのが、かわいいと評判の癒やしキャラの男だったのだ。
むろん、義盛は実朝を殺そうとしたのではない。将軍の身柄を確保して、戦闘を有利に進めようとしたのだが、先に実朝を確保したのは義時側だった。
というのも、起請文(誓約書)まで義盛に渡していた三浦義村が義盛の挙兵後、すぐに寝返って義時側についたからだ。義盛は同じ一族の義村は当然、自分に味方すると思ったのだろうが、義盛と義村は三浦一族の総領の地位をめぐってもともと仲が良くなかったのだ。
しかし、もし義村が寝返ることなく、義盛が実朝の身柄を確保できていたら、義時側が勝利を収めたかわからない。事実、翌3日に鎌倉に集まってきた軍勢も、両者の戦いが拮抗してどちらが勝つかわからないので、義時側への参加を一時躊躇したほどだった。
義時は義盛を挑発して挙兵させたはいいが、下手をしたら逆に自分が討たれていた危険性もあったということだ。
「合戦に励むのは無益である」
しかし、3日の午後6時ごろ、特にかわいがっていた四男の義直が討ち取られると、義盛は「長年かわいがってきた義直の出世を願っていた。今となっては、合戦に励むのは無益である」と、泣き悲しんだという。そして、あちこちを迷走した挙げ句、相手方の家臣に討ち取られた。66歳だった。
その後、五男義重、六男義信、七男秀盛以下が死に、長男の常盛らは逃げるが、結局、追われて自殺するなどしている。豪傑の三男義秀のみ安房(千葉県南部)に逐電して、行方が知れないという。