クーデターに和田義盛の息子と甥の名

それから4年近く経った建暦3年(1213)2月、大きなクーデターが発覚した。千葉成胤が、謀反への参加を呼びかけてきた安念という信濃の僧を捕らえ、義時に差し出したのだ。

安念が白状したところでは、首謀者は信濃国の御家人、泉親衡(親平とも)。頼家の遺児(一幡や公暁の異母弟の栄実か)を将軍に立てて義時を討つという計画で、主な参加者が130人余り、協力者は200人を超えるほどの大規模なクーデターだった。

その後、関係者が続々と捕縛されていくが、そのなかに和田義盛の息子の義直と義重、そして甥の胤長がふくまれていたのだ。

そこで3月8日、上総にいた義盛は鎌倉に駆けつけて実朝に直談判している。息子らを赦免してくれるように頭を下げられた実朝は、義盛のこれまでの功績に免じて2人の息子を釈放した。

すると翌日、義盛は一族98人を引き連れて御所を訪れ、甥の胤長の釈放を願い出た。これほど大挙して押し寄せるというのも、かなり強引だが、今度は実朝も拒んだ。甥の胤長は首謀者のひとりとみなされたため、おいそれと釈放できないというわけだ。

この状況を利用したのが義時だった。すでに述べたように、上総介への推挙を願い出た時点で、義時は義盛を警戒していた。つぶすならいまだと思ったのかもしれない。

義時の家人が二階堂行村に胤長を引き渡す際、縛り上げた胤長をわざわざ、98人もの和田一族が並ぶ前を歩かせたのである。

追い込まれた和田義盛がとった行動

一本気の義盛が、義時に強い憤りを覚えたのは当然だが、話にはまだ先がある。陸奥に流刑になった胤長の屋敷を義盛が強く所望した。そして、その願いはかなえられ、3月25日に胤長邸は義盛に与えられたが、わずか1週間後の4月2日、一転して義時に与えられることになり、義時は胤長邸に入っていた義盛の代官を強引に追い出している。

義時にすれば、警戒していた和田一族が大規模な謀反に関わっていた以上、もはや義盛と対決するほかないと腹をくくって、挑発行為を繰り返したのかもしれない。

4月15日には、義盛の孫の朝盛が出家して京都に向かっている。朝盛は実朝の和歌の会の常連で、実朝と義盛のあいだも、事実上、朝盛が取りもっていたのだが、もはや祖父の挙兵は避けられないとみて逃げたようだ。ただし、朝盛は武勇にも秀でていたので、義盛は強引に鎌倉に連れ戻すのだが。