麻生内閣が衆議院解散を行う1週間前のことです。事務次官には小泉内閣の懐刀と言われた丹呉泰健が昇格しますが、次の事務次官になる主計局長は勝栄二郎です。次いで事務次官昇格に近い順に、官房長が真砂靖、総括審議官に香川俊介が配置されました。
香川は竹下内閣当時、官房副長官だった小沢一郎の秘書官となって以来、小沢の信頼が厚かった官僚です。翌平成22年7月30日、勝が主計局長から財務事務次官に昇格し、野田内閣まで続く体制ができました。
民主党政権は「国家戦略会議」を嚆矢に次々と会議や組織を立ち上げますが、そのすべてに財務省は人員を送り込み、自分たちが仕切る体制を作り上げます。その頂点に君臨したのが、勝栄二郎財務事務次官。事務次官など普通は1年、長くても2年で辞めるのですが、勝は民主党政権の大半で留任します。この人、緊縮財政の権化であり、増税原理主義者です。
現在、「どうして財務省は増税ばかり言うのか」と疑問を持つ人もいるでしょう。財務省が現在のようになったのは、それほど古い時代の話ではありません。
増税さえできればなんでもいい
財務省が「増税省」となるのは、勝の時代からです。
元々、大蔵省は高度経済成長に賛成していた役所でした。大蔵省が増税止む無しとなったのは石油ショックに苦しんでいた大平内閣からですが、経済成長を犠牲にせずにいかに増税するかというのは、大蔵省から財務省に至るまで共通認識として持っていました。
竹下内閣で消費税を導入できたのは、バブル経済に沸いていたからで、所得税減税などと一体化の政策でした。なんでもかんでも増税だけすれば良いのなら、こんな頭を使わない話はありません。歴代大蔵官僚は増税の必要性を訴えつつ、景気との兼ね合いに苦しんでいました。また、バランスをとってもいたものです。
たとえば、十年に一度の大物次官といわれ、日銀副総裁を務めた武藤敏郎が財務事務次官だった時には、朝に産経新聞で上げ潮を説き、夕方に日経新聞で増税を説くような人でした。「バランスの武藤」と呼ばれ、財政再建論者だった与謝野馨と親密でありながら、後のアベノミクスのようなことを説いていたデフレ脱却議連の第一回講師を務めるような感じです。
それが勝の時代になり、増税の意味が決定的に変わります。言ってしまえば、「増税さえできればなんでもいい、特に消費税」という時代の到来です。
政治主導を目指したが…
選挙で「政権交代」だけを言い続けた民主党は、いざ政権交代をしてみると、今度は官僚の言いなりにならないことが唯一の共通認識になりました。
その結果、鳩山・菅の二代の内閣で霞が関のルーティンが大混乱に陥ります。内閣が決定した政策の実務面を省庁横断で調整する事務次官会議を廃止し、官僚の仕事を自分たちでやろうとします。