政治家の仕事が何なのか、わかっていない

官僚がいいように政治に介入することを許した原因は、民主党政権に「政権交代」以外にひとつにまとまる政策がなかったことが挙げられます。そして政治家がなすべき政策をまるで研究していなかった。

選挙公約には「子ども手当をバラまく」「出産手当をバラまく」「高速道路の無料化」等々、できもしない公約を並べ立てましたが、政権交代への期待値だけを上げました。財源は「埋蔵金」で、各省庁が隠している無駄な支出です。

そして、蓮舫が「仕分け」と称して各省庁の幹部を呼びつけ、支出の根拠をカメラの前で追及するなどというパフォーマンスを繰り広げました。こんなの、財務省主計局の係長の仕事です。政治家の仕事が何なのか、わかっていない。

民主党政権は、国民新党・社民党との連立政権です。彼らの意見も聞かねばなりません。連立政権をうまく生かすには、どういう政策のとりまとめを行えばよかったのか。言ってしまえば、連立政権で共通の政策はいくつであるべきなのか。憲政史を振り返ってみましょう。

連立政権で共通政策はいくつあるべきか

戦前は大正時代の加藤高明内閣、戦後は平成の細川護熙内閣が参考になります。それぞれの連立内閣が掲げた政策は、加藤内閣のときは二つ、細川内閣のときには一つです。

加藤高明内閣は、選挙で選ばれていない藩閥官僚による専横や、貴族院から内閣首班が出たことへの批判から、憲法が求める政治をせよという憲政擁護運動が盛り上がって成立しました。

衆議院の政党がまとまって、政党内閣樹立を目指します。大正13(1924)年5月10日の総選挙で憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が勝利をおさめ、連立内閣が成立します。

加藤率いる憲政会の公約は、政治改革の男子普通選挙制導入と行財政整理(現在で言う行財政改革)です。ところが男子普通選挙の導入をしたところで、護憲三派内閣は瓦解しました。政治改革はできたけれども、行財政改革の方が揉めて潰れたのです。

結局、合意できた政策は一つです。政友会が倒閣運動を始め、憲政会は野党に転落します。ただ憲政会は、他党を糾合して民政党へと成長し、政友会とともに戦前の二大政党の一翼を担いました。

細川護熙内閣の場合は政治改革だけでまとまっていて、政治改革関連法案が成立すると即座に崩壊しています。細川の日本新党は、内閣成立段階では衆議院の小規模政党です。地方への浸透の可能性を持つ新進党が結成される前に政権から転落し、生き残れませんでした。

マニフェストは「やりたいと思いついたもの一覧」

では民主党はどうかといえば、連立に共通する政策はゼロなのです。

マニフェストではできもしない公約の列挙。「コンクリートから人へ」など心地よいスローガンが国民に浸透します。より細かいインデックス(政策集)の方は、さらに無茶苦茶です。