プー太郎時代にひらめいた「松山-松山」路線

中村は政治家として順風満々なキャリアを歩み続けてきたわけではない。

1990年代後半には苦汁をなめている。1993年の衆議院選挙で初当選し、1996年の選挙で再選を目指したものの、わずかに及ばずに落選。1999年に松山市長に初当選するまで、本人いわく「プー太郎していた」。

写真=筆者撮影
中村時広(なかむら・ときひろ)氏。1960年生まれ。慶応大学法学部を卒業後、1982年に三菱商事に入社。愛媛県議、衆議院議員、松山市長を経て2010年から現職

もちろん無為に過ごしてわけではない。まだ30代後半であり、エネルギーにあふれていたのだから当然だ。見聞を深めるためにバックパック一つで海外を転々と放浪してもおかしくない。

実際、中国から韓国経由で台湾に入り、1カ月間にわたって一人旅をしていた時期があった。首都・台北市の訪問中のことだ。国際空港の「台湾桃園国際空港」のほかに国内線専用の「台北松山しょうざん空港」があることに気付いた。

愛媛・松山生まれで、地元の松山空港を愛用してきた元衆議院議員。自然な成り行きとしてひらめいた。松山空港発、松山空港着の国際チャーター便を飛ばしたら面白いのではないか!

単なるダジャレではないのか、と一蹴する人も多いだろう。だが、言い方を変えれば妄想力でもある。台湾も巻き込んだ「アジアの広域連携」というソーシャルイノベーションにつながるのだから。

愛媛・松山市長が台湾の航空行政当局と交渉

松山市長就任後、中村は「松山-松山」を思い出し、市の幹部2人を連れて台北市に飛び立った。持ち前のセールスマンシップを発揮し、同市松山区の区長と直談判して「松山-松山」の国際チャーター便実現を働き掛けようと考えたのだ。松山区は松山空港の所在地だ。

台北・松山区側は総出で愛媛・松山市側の3人を歓待した。何と職員30人を集めて宴会を開催。中村は「3人とも酒でやられました(笑)。そこからすべてが始まったんです」と回想する。

宴会は前哨戦にすぎなかった。大きな壁として立ちはだかったのは台湾の航空行政当局。当初は「松山空港は国内線専用。国際便は飛ばせない」と言い、松山市側の要望を一蹴。国際線導入後にも「就航先は主要都市。日本については羽田空港に限る」との理由を挙げ、一切妥協しなかった。

中村は「役人とはどこも同じなんだ」と思いつつ、粘り強く交渉を続けた。しゃくし定規な対応に我慢できなくなり、台湾当局側に「同じ名前なんだからいいじゃないか!」と罵声を浴びせることもあった。