「落ち着いて、集中して勉強する」という概念がない

したがって、子供たちがかりに勉強をするとなれば居間しかないが、そこには案の定大きなテレビがあり、おもちゃがあり、雑誌がある。雑然としたモノに溢れている。親兄弟や親戚がつねに集まってガヤガヤとしている。そんな場所では集中して勉強に打ち込むことは容易ではない。いや、そもそも家族のだれも「机に向かって集中して勉強する」という“発想”それ自体を持っていないといっても過言ではない。

文章で表現すると直感的には理解しづらいかもしれないが、貧しい人びとが暮らす街の日常生活のなかには「落ち着いて腰を据え、集中して勉強する」という概念自体がないのである。貧しい街にある貧しい家庭では、「勉強する」という営みは、自分たちの認知的枠組みのなかには含まれておらず、自分たちの生活や認知の「外側」にある逸脱的な行為として位置づけられているのだ。

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生活からも認知からも逸脱した行為だからこそ、私生活はおろか、学校生活においても「勉強している=ダサいこと」という価値観が広がりやすい。

もちろん本棚もない。娯楽雑誌が転がっていることがあるが、落ち着いて読書をする空間も習慣もない家庭では、参考書や専門書をしまっておく本棚は無駄なスペースを取る家具でしかなく、早々に排除されてしまう。本を読むという習慣がないから、たとえ多少のお金があっても勉強や教養のための本を買うという選択肢が浮上することはない。

たしかに、いまどきの子供たちにはYouTubeがある。YouTubeにはそれが無料で見られるのが信じられないほど上質な自主学習用の動画がいくつも公開されている。これを有効活用すれば塾に通うお金がない子供でも、通っている子供たちと同じくらいの学習機会を補完することは理屈の上では可能だろう。……あくまで理屈の上では、だ。

というのも、YouTubeにはすばらしい講義も収録されているが、それ以上にたくさんの誘惑があるからだ。YouTuberたちによるゲーム実況やオモシロ企画など、バラエティ豊かなコンテンツが目白押しだ。

机もなければ本棚もないような家の子供が、ことYouTubeを起動させたときだけ集中力を発揮して誘惑にも負けず勤勉になるということはありえない。次々にサジェストされる娯楽コンテンツのサムネイル画像をタップしてしまうのが当然だ。YouTuberたちはどうにか子供たちを誘惑しようと日夜工夫を凝らしている。

教育格差とは純粋な意味で「貧しさ(親の所得格差)の問題」という部分はもちろんある。しかしそれ以上に、その家庭に貧しさをつくりだした「慣習」や「文化」の問題である。

家に机がない、周囲の人間には集中して勉強するという概念がない、YouTubeは娯楽のツール――そうした「前提」が広く共有されているような場所では、エリート層が考えるような「塾に行かなくても効率的に学習できるやり方」を実践するような土壌がない。