言ってはいけないことを言わねばならない時期
給与所得や金融資産などの経済的な格差は計量的・統計的に把握することが可能だ。しかしながら、慣習や文化や概念といったものは統計的に記述することができないため、そこに格差があるとしても、図やグラフによって客観的に可視化することが困難だ。
かりに貧しい家庭に一律の経済支援を行ったとしても、あるいは勉強机を支給したとしても、その家庭の子供の学力向上にたちまち貢献するかは微妙なところだろう。たしかに「貧しさ」は教育格差の原因であるが、同時に文化や慣習によってもたらされた最終的な結果でもあるからだ。
貧しい暮らしのなかに根深く共有されている習慣や文化や価値観こそが、そこで暮らす子供たちが得られる教育の質的・量的な乏しさをつくりだしている。国や自治体から「子育て世帯の(教育費)支援」の名目で多少のお金が入っても、それでは「貧しさをもたらす慣習や文化」そのものを変えることはできない。
しかしながら「貧しさはカネがないことと同じかそれ以上に、貧困層に共有される慣習や文化こそが原因だ」――と述べることは、現代社会では差別主義者として非難されるリスクをともなう。そのため「教育格差」の問題の核心部を理解している人も、自身の社会生活を危うくしかねない不名誉なレッテルが貼られるのを恐れて「各家庭の経済格差や貧困をなんとかしなければいけませんね」とお茶を濁す。
それではいつまで経っても「教育格差」の表面的な部分を撫でるだけに終わってしまう。不道徳で「ただしくない」発言を見つけたら、大勢で寄ってたかって非難してたちまち炎上させるSNS的なコミュニケーションが、核心に迫る議論を委縮させている。
貧しい家庭の子供たちが思うように勉強ができず、学力が伸び悩んでしまうのはなぜなのかという問題について、世間から怒られたくない我が身可愛さのあまり「お金がないから」という、なにも言っていないに等しい無難な議論で終わらせていては、根本的な解決を見ることはない。