「父母の助けとなることは労を厭わず、勤め行なうべし」

なお、文化2年(1805)になると、会津藩は「幼年者心得之廉書かどがき十七カ条」を全藩士に配布し、幼少年の家庭教育を徹底させた。

いくつか紹介しよう。

「其の一、毎朝早く起き、手をあらい口すすぎくしけずり衣を正うして、父母の機嫌を伺い、年齢に応じ座中を掃除し、客の設け等致すべし」

「其の三、父母および目上の者の出入りには必ず送迎すべし」

「其の四、出る時は父母にまみえいとまを乞い、行き先を告げ、帰る時も同じく其の旨を告ぐべし。すべて何事も父母に伺い己れ専らになすべからず」

「其の十、人をそしり、人を笑い、あるいは戯れに高きに上り、深きに臨み危うきことなすべからず」

「其の十四、父母の助けとなることはいささかも労を厭わず、まめやかに勤め行うべし」

このように会津藩では、幼いときから目上の者や父母に対する絶対的な服従心を家庭で教えていたのである。こうした教育により、会津藩では独特な士風が醸成されるようになったのだ。

朱子学ではなく徂徠学を主とした庄内藩

最後にもう1つ、ユニークな教育をおこなった藩を紹介しよう。

庄内藩である。文化2年(1805)、9代藩主の酒井忠徳は藩校「致道館」を設置した。続く10代藩主忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、会議や裁判もおこなわせた。「藩政は学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」という信念からだった。文化13年(1816)には鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに置いた。

教育内容は朱子学ではなく、荻生徂徠がとなえた徂徠学(古文辞学)を主とした。

荻生徂徠像(写真=『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』/PD-Japan/Wikimedia Commons

その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、経世論(政治学)にも重点を置いた。

文化2年、庄内藩は「被仰出書おおせいだされしょ」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。