「金銭は二の次だ」と語られる美談のウソ

ダボスマンは、自分は隣人よりも賢明だし革新的であるから富を築いてきたのだ、と説くだろう。

いくばくかの金銭を慈善事業に寄付しても構わないという姿勢を取っているが、あくまで、自分が定めた条件が満たされる場合だけのことだ。具体的に言えば、自分のブランド事業として、助成した病院の病棟に関する命名権を得られたり、どこかの国で悲惨な現状から救ってあげた哀れな子供たちに囲まれて写真撮影の機会が生じたりする場合だけである。

公の場に出るときには、ダボスマンは、「世界の現状を改善する」という意義のある活動に比べれば、金銭など二の次だと語ってみせる傾向がある。「彼」が得意げに掲げるソーシャルメディアのプラットフォームや「技術的な解決策」といったものは、アルゴリズムとITデバイスを介して、顧客や従業員に関する重要情報を抜き出して企業に配るための道具である。それなのに、ダボスで語られる美談の中では、社会を守り育てたいという強い思いが実を結んだものとして賞賛されてしまう。

ダボスマンが駆使する金融デリバティブは、実際には込み入った仕組みであり、2008年の世界金融危機を招いた最大要因だった。それすらも、人手をかけて複雑な計算をしなくても済むようにマーケットの力を採り入れた、ダボスマンの配慮だった、とされてしまう。

すでにお気づきのように、億万長者たちは圧勝し、比類ない富を手にしただけでなく、現代文明が変化していく方向性にも発言権を及ぼしてきた。彼らのやり口を我々は理解すべきである。一言で言えば、民主主義の仕組みを歪ませ、裏口を経由するやり方だ。

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「恩恵は大衆にも波及する」という理屈のウソ

ダボスマンがグローバル資本主義の果実を独占するようになったのは、偶然ではない。彼らは、政治や文化の中に、「果てしない嘘」をこっそりと浸透させてきた。減税や規制緩和をすれば、最富裕層がいっそう豊かになるばかりか、その恩恵は大衆にまで及ぶと、まことしやかに主張している。だが、そんな恩恵の波及が起きたことは、現実には一度もない。

資本主義の歴史は、富める人々が自分たちの富を使って権力を確保し、さらに利潤を増やす方向でルールを作り上げることの連続だ。ダボスマンは憂慮する地球市民の一員として振る舞ってみせながら、社会が進歩するためには、彼らが一人勝ちできる状態が必要条件だというような考え方を浸透させた。それこそが最も狡猾な発明といえる。

19世紀に「強盗男爵」と呼ばれた人物たち──アンドリュー・カーネギーのような産業資本家や、ジョン・P・モルガンのような金融業者たち──は、自分たちが富を獲得すれば、目的を果たしたとして、おおむね満足した。

しかし、自己肯定感も必要とするダボスマンの強欲ぶりは、さらに斜め上をゆく。「彼」は、普通の人が何足もの靴下を持っているように、いくつもの邸宅を持っている、というだけでは喜ばない。自分の関心事は、ほかのみんなと同じであるかのように装う。そして、搾取行為をしておきながら感謝を求める。自分が得たものは、公共の福祉を真っ当な仕組みで守ってきた成果であると正当化しつつ、あらゆる人々から生活の糧をむさぼり取るのだ。