センスとは「引き出し能力」のことである
理屈っぽくいえば、センスとは「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」である。ひらたくいえば、「引き出しの多さ」。すぐれた経営者はあらゆる文脈に対応した因果のロジックの引き出しを持っている。しかもいつ、どの引き出しを開けて、どのロジックを使うかという判断が的確だ。経験の量と質、経験の幅と深さが「引き出し能力」を練り上げる。その典型的なモデルが、この連載でもいずれ取り上げようと思っている三枝匡さんである。彼の本を読むと、戦略をつくるセンスがその人の文脈に固有の因果論理の総体であるということがよくわかる。
戦略ストーリーをつくるのは経営者の仕事であり、経営のド真ん中である。自分で戦略をつくって、自分で動かして、成功したり、失敗したりを繰り返していく中でセンスが磨かれる。しかし、誰もがそんな経験ができるわけではない。そこで疑似体験が大切になる。「擬似場数」といってもよい。
擬似場数を踏むための方法にもさまざまなものがある。より本番に近い疑似場数は、センスのいい人の隣にいて、その人の一挙手一投足を観察すること。昔からある「鞄持ち」の方法論である。
僕自身の経験でいえば、センスに優れた経営者として真っ先に浮かぶのが、先日亡くなられたリンク・セオリー・ホールディングスの社長、佐々木力さん。佐々木さんのセンスのよさを説明しろと言われてもひと言では言えないのだが、機会あるたびに横で見ていると、「なるほど、センスがいいとはこういうことか…」と気づかされること多々であった。
誰でもいいので、まずは自分の周囲の人でセンスがよさそうな人をよく見る。そして見破る。疑似場数を踏むとはそういうことである。「見破る」というのは、その背後にある論理を探るということである。センスのいい人をただ漫然と観察したり真似するのではなく、なぜその人はそうするのか、をいちいち考える。これを繰り返すうちに、自分と比較してどう違うのか、自分だったらどうするか、と考えるようになり、自分との相対化が起こる。そうして自分の潜在的なセンスに気づき、センス磨きが始まる。
センスのいい人のそばにいながら何年たっても進歩しない人というのは、人を見るだけで終わっていて、見破るところまでいかない。見破らなければ相対化できない。自分と相対化することではじめて自分に固有のセンスが磨かれる。
といっても、センスのいい人がそう都合よく自分のそばにいてくれるわけではないし、鞄持ちをできたとしても見る対象がごく少数に限定されてしまう。もう一段疑似的ではあるが、もっと日常的に手軽にできる方法があったほうがよい。それが読書である。