テロは、もはや特定の国家や組織によるものとは限りません。国家間の戦争のような少なくとも国際法に則ったルールはなく、誰がいつテロリズムを行なうか分からないのです。これらの事態は、90年代を通して準備されていったと言えるでしょう。

冷戦は、世界の終わりという恐怖を現実の可能性として植え付け、それを回避するコストとして世界中に死と破壊をもたらしました。そのことは、アメリカの外交政策だけでなく社会や文化、そしてそもそもアメリカとは何かというアイデンティティの形成に大きな影響を与えました。

アメリカは資本主義、民主主義を守るリーダーであり、自由の守護者である。それに抵抗する者──共産主義者──は敵と見なしていいのだという感覚です。冷戦の終結は、そうした明確な敵を見失うということでもありました。

明確な敵も、明確なヒーローもいなくなった

旧来のアクション映画やスリラーの世界では、分かりやすくヒーローと悪役が登場しますが、現実の世界はもはやそうではありません。冷戦のような政治的闘争もなく、これが「敵」であるという印は明白ではなくなりました。

その感覚は、映画の世界においても反映されます。物語においても、明確な敵がいなければ、明確なヒーローもまたいなくなってしまうのです。

だからこそ、90年代にはスパイ映画が数多く作られるようになったのだと思います。『ミッション:インポッシブル』(1996)や、その後2000年代に入っての『ボーン・アイデンティティー』(2002)などが例に挙げられます。

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映画『ミッション:インポッシブル』の一場面

ちなみに、『ミッション:インポッシブル』はご存じの通り、『スパイ大作戦』(1966~1973、CBS)のリメイクですし、ジェイソン・ボーンを主人公とした一連の「ボーン」シリーズはロバート・ラドラムが80年代に発表した小説が原作となっています。ですから、これらの作品は必ずしも90年代のものとは言えませんが、新たな意味を持って受け入れられたのでしょう。

変化する映画のキャラクター像

正義のヒーローとは異なり、スパイには個別の「ミッション」だけが与えられるのであり、全体的な目的の中における彼の任務の位置づけは知らされず、彼自身の動機も関係ありません。その戦いは単純に敵か味方か、白か黒かという構図では理解できないものになります。

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