家康存命中、白魚は庶民に禁止されていた

天明5(1785)年には『鯛百珍料理秘密箱』という、鯛料理のレシピが載った本が発売されています。鯛の旬は春です。同じく、春が旬の白魚も江戸っ子に人気の魚でした。

白魚漁は、篝火かがりびをたいて、夜に行われました。白魚は成魚でも体長10センチに満たない小さな魚で、傷みやすいのが難点でした。昼に漁をしたとしても、お客が買ってくれるのは翌朝。これではせっかくの白魚が腐ってしまいます。そこで、夜に篝火をたいて漁をして、早朝出荷する、というシステムができました。

ただ、徳川家康の存命中は、白魚を食べられたのは将軍家だけでした。理由は、家康が大好物であったことが一つ。もう一つは、生きた白魚は体が透けていて、頭に葵の御紋のような模様が見えたためです。「将軍家を下々の者が食べてよいはずがない」とされたのです。そのお達しも、家康亡きあとには解除され、江戸っ子たちは白魚を喜んで食べるようになりました。

やがて、夜、篝火に誘われて集まってくる白魚を、四手網よつであみですくって獲る白魚漁が、江戸の風物詩になりました。芸者を連れて小舟を出し、海の上で、踊り食いから塩ゆで、素揚げまで、獲れたての白魚づくしをいただく、という贅沢な遊びも人気になりました。

初鰹を食べると750日寿命がのびる

江戸っ子は初物が大好きです。なかでも、かつおは格別でした。「初物を食べると寿命が75日のびる」といいますが、初鰹はその10倍も寿命がのびると迷信が広まり、熱狂した江戸っ子の間で初鰹ブームが起こったのです。

鰹には、たんぱく質のほか、カルシウムや亜鉛、鉄分などのミネラル、ビタミン各種など、健康増進に大切な栄養素が豊富です。脳の若々しい働きに欠かせないDHA(ドコサヘキサエン酸)も多く含まれます。現代の栄養学から見ても、「鰹を食べると健康長寿によい」というのは間違いのないことでしょう。

ただ、「初鰹を食べると寿命が750日のびる」という迷信は、江戸っ子の信心深さをうまく利用した、鰹の消費量を増やすための策ではなかったかと思います。

鰹は回遊魚であるため、旬や盛りには大漁になります。しかし、なにぶん傷みが早い。われ先にと買ってもらうために、江戸っ子の信心深さが役に立ったというわけです。

鰹は高速船で獲りに行きます。高速船といっても、もちろん、当時は人力です。葛飾北斎の『冨嶽三十六景神奈川沖浪裏』にも描かれていますが、細長く先端の尖った船に、右に4人、左に4人の船頭が座って船を漕ぎ、前に2人が交代要員として待機します。つまり、休憩できる2人も含めて合計10人で順々に漕ぎ手を交代しながら一目散に沖まで行き、たくさんの鰹を釣り上げ、いちばんを目指して帰ってくるのです。

鰹漁は、朝と昼に行われ、新鮮な鰹が魚河岸に届けられました。それが初物となれば、大変な騒ぎです。江戸っ子が我先にと買い求め、天井知らずの値段がつけられた時代もありました。ある文献によると、文化9(1812)年に歌舞伎役者の中村歌右衛門が1本の鰹を3両で買っています。現代のレートに換算すると約30万円。文政6(1823)年には、江戸の料亭の中でも名店中の名店「八百善」が同じく初鰹を3本も買っています。

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「戻り鰹」が江戸っ子に不人気だったワケ

なお、鰹は、時期によって「初鰹」と「戻り鰹」と2つの呼ばれ方があります。江戸っ子が熱狂したのは、春に獲れる初鰹。さっぱりした味と香りの高さが特徴です。これに対して、秋に獲れる戻り鰹は脂がのって濃厚な味わい。最近では「トロ鰹」との名称で売られることも多く、戻り鰹のほうが人気です。

ところが、江戸時代は秋の戻り鰹は下魚の一つに数えられていました。流通と保存の問題から、脂ののった魚は鮮度が落ちると臭みが出やすく、敬遠されたのです。また、脂がのった戻り鰹は乾燥しにくいために鰹節にも加工しづらく、もっぱら塩漬けにされました。

江戸の節約おかず番付である『日々徳用倹約料理角力取組』に、「塩かつお」として魚類方・前頭六枚目にランクインしています。一方、料理屋では、生臭さを防ぐためにお酒に漬けたり、大根おろしで洗ったりという方法がとられました。ちなみに、現代では、鰹の刺身をわさび醤油や生姜醤油で食べますが、江戸では、からし醤油が定番でした。