苦肉の策で生まれた鰹のたたき
鰹といえば、たたきも一般的な食べ方ですが、当時は土佐のご当地グルメでした。たたきは、食中毒を恐れた土佐藩の殿様が鰹の生食を禁じたために、領民の間で発生した苦肉の策。あぶっているから生ではない、というわけです。
現代も、寄生虫であるアニサキスの害が問題になっていますが、当時もアニサキスに感染して激しい腹痛にのたうち回る人が多かったのです。アニサキスは主に身と皮の間にいます。
鰹をあぶるようになって、アニサキスを殺せるようになり、感染者は減りました。しかも、栄養豊富な皮も一緒に食べられて一石二鳥。さらに、たたきには長葱、生姜、にんにく、茗荷、青紫蘇などの薬味をたっぷり添えます。これらの薬味には、鰹のDHAの吸収を助け、食欲を増進する作用があるうえ、殺菌作用もあり、食中毒予防にも役立ちます。
なお、江戸の料理書には、土佐風とは異なる、江戸流の鰹のたたきの調理法が掲載されています。こちらは皮をはいで酒に漬け込むことでアニサキスをとり除きます。「江戸っ子はこんなたたきを食べていたんだ」と思いつつ、からし醤油でいただくと、くせになるおつな味です。
下魚の中でも最下級だった“あの魚”
現代では、刺身といえば鮪です。ところが江戸では、鮪は下魚の中でも最下級の魚で、魚河岸ではいちばん隅っこに置かれていました。なぜ、あんなにもおいしい鮪が、江戸では人気がなかったのでしょうか。
鮪は相模湾などで獲れましたが、体が大きく、江戸までは菰にくるんで大八車で運ばれてきました。菰とは、わらで編んだむしろのこと。その姿がまるで死体が運ばれてくるように江戸っ子には見えたといいます。
さらに古事記や万葉集によると、鮪は「しび」と呼ばれていました。この語感が「死日」、もしくは「死人」につながるとされ、このうえなくイメージの悪い魚だったのです。
江戸初期に書かれた『慶長見聞集』という随筆にも、「しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり」と記されています。鮪が下魚とされたのは、イメージの問題だけではありません。
相模湾から大八車でゴロゴロと運んでくる間に、傷み始めてしまったことも大きいでしょう。とくに脂身は傷みが早く、身崩れし、臭みも強く出ました。魚の脂が腐った匂いほど、きついものはありません。
現代では高価な大トロも、江戸では「だんだら」や「ズルズル」などと呼ばれ、畑の肥料などにされていました。魚好きの猫もまたいで通るというので、「猫またぎ」とも呼ばれました。
吉宗の倹約令で一気に鮪が人気に
そんな鮪の消費量がいっきに高まるできごとが起こります。
8代将軍・吉宗が「天保の改革」によって贅沢を禁じたのです。これによって人々は下魚を選んで食べるようになりました。鮪は価格が安く、倹約には活躍しました。「まぐろ売り安いものさとナタを出し」という川柳が残っているぐらいで、「日々徳用倹約料理角力取組」にも、いくつもの鮪料理がランクインしています。
さらに、江戸の寿司屋が、鮪の切り身を醤油に漬けた「ヅケ」を考案しました。ヅケは、保存性を高めるだけでなく、魚の身が弾力を増し、舌触りをねっとりと滑らかにします。それが握り寿司で提供されるようになり、人々は鮪のおいしさに開眼し、たちまち人気が出たのでした。