「琉球藩廃止、沖縄県設置」宣言への琉球の反応

1879年、内務大丞松田道之が琉球処分官として600人余りの日本兵(熊本鎮台兵)と警官とともに首里城に乗り込み、「琉球藩廃止、沖縄県設置」を宣言した。松田は1879年、大久保の死後、「琉球処分案」を作成していた。警察力による強権合併なのに「処分」としたのはあくまで内政問題として処理したかったからである。

首里城歓会門前に並ぶ明治政府軍の兵士(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

4月4日に沖縄県設置は全国に布告され、翌日鍋島直彬が初代沖縄県令に任命された。旧藩王の尚泰は6月、東京へ。「東京住居」を命ぜられ、1884年に一時帰県を許されたが、これは士族の脱琉渡清を戒めるためでもあった。翌年帰京した尚泰は侯爵となった。

この動きに、従来の日中両属の形で自らの主体性を発揮しようという民族運動があった。琉球救国運動である。『琉球新報』の太田朝敷は、沖縄の進歩を遅らせた最大の原因は士族のこの運動だと厳しく指弾した。

清国へひそかに渡航して清国当局に嘆願する動き(脱清運動)も生まれた。脱清人の林世功りんせいこうは決死の覚悟で嘆願書を出すが、その翌年には明治政府と中国の間で分島案が協議されていることを知り、絶望のあまり北京で自害した。林の抗議は米国の前大統領グラントの調停案である、先島を分割する琉球分割条約を阻止した。

奄美の黒糖を巡るあまりに非情な仕打ち

琉球救国運動はその後の琉球文学の主体性に表れているようだ。また、国民政府が台湾に亡命してから、蒋介石の妻宋美齢などは、琉球は中華民国に属しているというアメリカへの打電を続けていたという。

西郷隆盛は廃藩置県断行後の軍事力強化のため、鹿児島藩全体を常備隊に編成した。廃藩置県後は県士族の利権を守ろうとして奄美の黒糖搾取の旧弊を踏襲した。旧藩時代と同じ仕組みの「大島商社」設立であった。

1877年、黒糖自由売買の許しを得るために西郷を頼って鹿児島に上った島民代表55人は、西郷に会えず、涙橋(鹿児島市郡元)にあった死刑囚の牢獄に入れられてしまった。島民代表は、西南戦争従軍を条件に出獄され、35人が「必死隊」と名付けられ、熊本県で戦った。敗戦後、帰島できたのは半数にも満たなかったという(勝手世かってゆ騒動)。